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COLUMN THE REFLECTION 第27回 ポップ・シーンに登場したハード・ロックに潜む音楽性再考 ① ~圧倒的なハード・サウンドとそれだけではない叙情の魅力、G.F.R~ 文・後藤秀樹

ポップ・シーンに登場したハード・ロックに潜む音楽性再考 ①
~圧倒的なハード・サウンドとそれだけではない叙情の魅力、G.F.R~

かつてロック界を席巻したバンドのひとつにG.F.R(グランド・ファンク・レイルロード)がいた。様々な伝説を生んだバンド。レッド・ツェッペリン(Led Zeppelin)ディープ・パープル(Deep Purple)ブラック・サバス(Black Sabbath)ユーライア・ヒープ(Uriah Heep)といった英国勢と並んで、アルバムも売れ、ヒットも多々出したハード・ロックの分野で米国の超ビッグ・ネームだった。彼らは現在も活動を続けているものの、かつての栄光の時期を離れどこか忘却の彼方に存在している印象がある。

今回は、ウッドストック後の70年代初頭の混沌としたロック・シーンの一断面として、ファンを魅了したG.F.Rにスポットを当て米国側のハード・ロックの魅力について振り返ってみたい。

◎画像1 G.F.R Promo Photo

米Capitolレコードが巨額の広告費を使って売り出したG.F.R。かつての盟友でもあり前身バンドの仲間であった策士テリー・ナイト(Terry Knight)のプロデュースの下、69年7月4日(米建国記念日)のアトランタ・ポップ・フェスティバルで180000人の目の前でデビューした。その後次々とツアーをこなし、その名が全米に広がるまでさほど時間はかからず、翌8月にアルバムが出されることで大評判となった。デトロイトではレッド・ツェッペリンと同じステージにも立っている。日本でも人気バンドとなり、71年7月の来日公演での雷雨の中での圧倒的なライヴ・パフォーマンスは今も伝説に残っている。

◎画像2 G.F.R Stage + Mark Farner




グランド・ファンク・レイルロード シングル盤と「レッド・アルバム」

◎画像3 Heartbreaker single

私が最初に聞いたのは「ハートブレイカー(Heartbreaker)」だった。ラジオでかかったのだが、哀感の曲調にすぐ魅せられた。メロディーが明確でコーラスもシャープ、多少のハウリングなんて気にしない大胆さというか潔さも感じられた。(そのコード進行と曲調を参考に井上陽水が初期の代表曲「傘がない」を作ったということは今ではよく知られたことだが、当時私はG.F.Rがどんなバンドかも知らなかった。)次に聞いた「アー・ユー・レディ(Are You Ready)」はライヴ録音だったせいで、最初の部分が歓声で肝心の音楽が聴き取りにくいこともあり、あまり感心しなかった。(今となっては、歴史の残るライヴ・アルバムの1曲ということで敬意を払って聞く作品だが、ライヴ・バンドとしての凄さを伝える為の英断のシングル・リリースだったことはわかるのだが、その頃の私にはきつかった。)ただ、「ハートブレイカー」「アー・ユー・レディ」もラジオではかかりまくっていた。

★音源資料A Heartbreaker

試聴 Click!

G.F.Rについて書かれたものを眺めるようになり、徐々にメンバーも分かった。そんな時に、日本楽器(YAMAHA)で毎月配布していた大型海外アーティストポスター(裏にカラーで新譜を紹介していた)をもらった。そこにはマーク・ファーナーが膝を折って頭を床につけるほど仰向けにのけぞってギターを演奏するモノクロの衝撃的な姿があった。まさに迫力の驚愕の写真でその姿は当時有名になったのだが、今はそのポスターも使用された写真も探してみたのだが見つからなかった。ダイナミックな演奏がポスターから想像できるだけに、聞いてみたいと思わせる見事な宣伝だったと思う。

◎画像4 孤独の叫び(Inside Looking Out) single

決定的になったのは「孤独の叫び(Inside Looking Out)」を聞いたことだった。当時ポップス系を中心に聞いていた耳には本当に新鮮に響いた。トリオ編成のクリーム(Cream)のヒット曲「ホワイト・ルーム(White Room)」「サンシャイン・ラヴ(Sunshin Of Your Love)」は知っていたが、かなり違っていた。何より同じ編成でこれだけの緊張感、そしてスリリングさも持ち合わせていることに驚いた。マーク・ファーナー(Mark Farner)のヴォーカルとギターもいいが、メル・サッチャー(Mel Schacher)の引きずるようなベースの響きもドン・ブリュワー(Don Brewer)の冒頭の印象的なシンバル音にはじまるドラムスもシンプルながらタイトル「孤独の叫び」を体現する雰囲気がたっぷりだった。

★音源資料B Inside Looking Out

試聴 Click!

10分近い曲だが決して飽きずに聞けたし、宣伝文句通りに大音量で聞きたくなるタイプの音楽だった。友人にそのことを伝えると、翌日に彼らのアルバムを貸してくれた。「孤独の叫び」が入っている彼らのセカンド・アルバム『Grand Funk』(69年12月)だった。これは通称レッド・アルバムと呼ばれ、見開きのデザインが真っ赤なものだ。国内盤はさらにレコードも初回発売は赤盤だったからその名称がよりふさわしく思えた。

別の友人宅ではシカゴのアルバムを聞かせてもらっていたが、自宅で本格的なロックのアルバムに向かうのは初めての体験だった。かなり緊張しながらレコードをターン・テーブルにのせた。

◎画像5 Grand Funk Red Album

しかし、当時ポップス少年だった私の耳には、3人の演奏の緊張感と圧倒的な演奏は伝わるものの、全体に印象に残る曲が少なく不満だった。それだけにラストの「孤独の叫び」の強烈さが際立ったという思いが強い。ただ、アルバムではその前曲の「パラノイド」(サバスの曲とは同名異曲)がサウンドエフェクト(SE)にはさまれた幻想的かつ圧倒的な演奏だった。最後に入っている赤ん坊の泣き声のSEの印象がまだ残る中で聞こえてくる「孤独の叫び」は、それまでの1曲だけを取り出して聴く時とはまた違う感覚になった。アルバムを聞くということはこうした発見もあるのかと妙に感心した。  

このレッド・アルバムはその後彼らの最高傑作とされているが、自分の最初の印象が悔しくてその後何度も聞いた。大音量サウンドの圧倒的な彼らの世界はわかってきたが、やはり曲そのものの魅力は他のアルバムには及ばなかった。ただ、ファーストアルバムの発表から4ヶ月しか経っていない時期にハイペースで出されたことも驚きだ。それにしても「孤独の叫び」は異例の33回転シングルで10分をそのままリリースしたという事実も当時は大きな話題だった。(英国をはじめとするヨーロッパ各国と日本だけのリリースだった。)後になって原曲となるアニマルズの「孤独の叫び」を聞いたが、断然G.F.Rのほうに軍配が上がる。



グランド・ファンク・レイルロード 『オン・タイム』~『サバイバル』

◎画像6 G.F.R On Time

73年高校に入ると「音楽鑑賞クラブ(!)」があり、すぐに入ったが、面白いことにロック好きばかりのメンバーだった。そんなわけで校内の音楽室の中でロックのレコードを聞くことが許された。そこで他のクラブ員が持ってきたファースト・アルバム『オン・タイム』(69年8月)を遅ればせながら聴くことができた。それはずいぶんとコンパクトにまとまったいい曲が並んでいて大いに気に入った。何より「アー・ユー・レディ」もライヴでの喧噪がウソのように曲の良さが伝わったし、ギターの運指練習のようなイントロの「エニーワンズ・アンサー」も主旋律のメロディーとコーラスがクールでとてもいい。シングル・デビュー曲の「タイム・マシーン」「T.N.U.C」もカッコよかった。大きな教室でロックを大音量で聞くという経験はなかなか無いと思うのだが、そこで聞いたものは今も生々しく覚えているのが不思議だ。もしその場でセカンドのレッド・アルバムも聞いていたら別の感想を持ったかも知れない。ちなみにその「クラブ」ではキャプテン・ビヨンド(Captain Beyond)アトミック・ルースター(Atomic Rooster)EL&Pイエス(Yes)キング・クリムゾン(King Crimson)等を持ち寄って聞いたのだが、先生方には評判が悪かったようで「クラブ」自体1年で消えた。

◎画像7 G.F.R Live Album + Single

ファーストの中で最も印象に残ったのは「イントゥ・ザ・サン」。この曲は件の『ライヴ・アルバム』でもラストに原曲の倍の長さで演奏されているほどに彼らにとっても重要なナンバー。これもライヴの方では観衆の歓声にかき消される部分があって、今も残念に思ってしまう。70年(デビュー翌年)にはヘッドライナーになるまでのし上がったG.F.Rだから、当時彼らを熱狂的に迎える聴衆の凄さを敢えて収録することが戦略というのも理解できる。それだけに、私は彼らの4枚目の作品『ライヴ・アルバム』ロック・ドキュメンタリーという位置づけでとらえている。このアルバムは70年11月に出されていた。

◎画像8 Closer To Home + Single

ライヴに先だって70年6月にリリースされたのが3枚目にあたる『クローサー・トゥ・ホーム(Closer To Home)』。このアルバムのプロモーションでは、ニューヨークのタイムズ・スクエアにある巨大なビルボード(広告塔)に彼ら3人の顔写真が並んだ。そのニュースを聞いてびっくりしたものだ。

◎画像9 広告塔のパネル

このアルバムも後追いで聞いたものだが、様々な工夫がなされた大好きな作品だ。A面の各曲もよく出来ていたが、何と言ってもラストに収録されたタイトル曲が圧倒的な素晴らしさを持っている。

★音源資料C 「I’m Your Captain ~ Closer To Home」

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「アイム・ユア・キャプテン(I’m Your Captain)」「クローサー・トゥ・マイ・ホーム(Closer To Home)」がメドレー形式で続き、波間を漂うようなSEの挿入も詩情を高めじつに自然だった。これも、曲の内容はベトナム戦争に向かう同郷の軍人をテーマにしたものであることは後になって知ったことだが、ドラマチックに描かれるその世界は叙事詩的にも感じられる。彼らのもうひとつの魅力だ。

◎画像10 Survival + ”Gimme Shelter”  Single

71年4月5枚目にあたる『サバイバル(Survival)』は、ちょうど全世界同時発売新譜として出された時にラジオで特集され、その時に聞くことが出来た。このアルバムも曲の良さが際立っていてこれも大好きな作品だ。特に『サバイバル』は原始人に扮したメンバーのジャケットがとても奇異に思えたが、内容はけっこうナイーヴだった。当時街の大きなレコード店には新譜として何枚もの『サバイバル』が並んでディスプレイされていて壮観だった。が、やはりちょっと不気味ではあった。ここではヒットしたトラフィック(Traffic)のカバー「フィーリン・オールライト(Feelin’Alright)」よりも「ギミ・シェルター(Gimme Shelter)」に夢中になった。こちらはローリングストーンズ(Rolling Stones)のカバーだが、アルバム全体にアコースティックな雰囲気が強かっただけにこの曲では本来の彼ららしさである轟音の爆発が気持ちよい。ストーンズのヴァージョンよりずっと気に入った。ジャケットの迫力も曲に伴っていて凄さを感じた。

★音源資料D 「Gimme Shelter」

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ほぼ同時期にブルー・チアー(Blue Cheer)MC5といったハード・ロックもあったものの、米国の代表するハード・ロック・バンドとして世界的に認知されたのはG.F.Rが最初だったと言っていいだろう。




グランド・ファンク・レイルロード 「戦争をやめよう」~『アメリカン・バンド』

◎画像11 E Pluribus Funk + 戦争をやめよう“ People Let’s Stop The War” Single

6枚目『戦争をやめよう(E Pluribus Funk)』は銀貨を模した円形ジャケットという意外性を持った話題の多かった作品(71年11月)。これも新譜で出たときにラジオでずいぶんとかかった。メッセージ性も込められていたが、冒頭3曲がシングルになった強力なチューンだが、中でも「フットストッピン・ミュージック(Footstoppin’ Music)」でのハモンド・オルガンを用いたファンキーさがその後の彼らの音楽性を物語っている。このオルガンはマーク・ファーナーが弾いていることに驚いたが、後に専任キーボード・プレイヤーが加わっても、ライヴではマークも単独で弾いている。

そのファンキーさの一方で、彼らの集大成とも言えるようなラストのオーケストレーションを伴った「ロンリネス(Loneliness)」での壮大さには舌を巻いた。ただ彼らには先に述べた大作「アイム・ユア・キャプテン/クローサー・トゥ・ホーム」という前例があるのだが、当時のハード・ロック好きの友人たちは、「生ぬるい」とか「そんな曲はなくてもいい」なんて言っていたものだから、G.F.Rのそうしたメロウな面も好きだった私はそのことを大きな声で主張できなかった。

◎画像12 Phoenix + Mark,Don & Mel 1969-1971 (US + J Outer)

G.F.R7枚目にあたる2枚組のベスト・アルバム『Mark,Don & Mel 1969-1971』を72年8月に発表し、10月には8枚目『不死鳥(Phoenix)』でゲストとしてキーボード・プレイヤーとしてクレイグ・フロスト(Craig Frost)を入れて、前作で見えたファンキー路線を深めていく。1曲目の「フライト・オブ・フェニックス(Flight Of The Phoenix)」ではさらにベテラン・フィドル・プレイヤーのダグ・カーショウ(Doug Kershaw)も加え、ファンキー・ジャズ的な演奏になっていた。

★音源資料E 「Flight Of The Phoenix」

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これらの変化は前作までのテリー・ナイトとの関係を絶ち自分たちでプロデュースを手がけたことが大きい。かつての大音量のハード・ロックのイメージから脱却し、多彩な音楽性に彩られたグッド・アメリカン・ロックを聞かせてくれる。

それにしてもわずか3年の内に8枚のアルバム(ライブ、ベストを含む)を出してきたことには改めて驚く。その上、彼らのピークはこの後に訪れるのから全く恐れ入ってしまう。
テリー・ナイトの解雇は早い時期から予想された金銭面での問題からだったが、これも訴訟問題に発展するほど大きな「しこり」として残ることになった。音楽もビジネスである以上問題は起こるのだが、売れれば売れるほどにそのこじれ方が大きくなる話ばかりでやりきれない思いになる。)

◎画像13 American Band

それが、73年7月発売の大ヒット・アルバム『アメリカン・バンド(We’re An American Band)』(9枚目)だ。アルバムは全米2位だが、シングルは堂々の1位だ。注目はプロデューサーにトッド・ラングレン(Todd Rundgren)を起用したこと。その選出にあたってはリック・デリンジャー(Rick Derringer)とどちらにするか迷ったというが、その後のトッドの快進撃を生んだことも合わせて考えると、ここでの選択は大成功だったと言えるだろう。

そして、前作ではゲストだったキーボードのクレイグが正式メンバーとして加わったこと、リード・ヴォーカルと曲作りにドン・ブリュワーの割合が大きくなったことが大きな変化だ。それまでマーク・ファーナーがあくまでフロント・マンとしてのイメージを背負っていただけに、面食らうファンが多かったのも事実だ。さらに、バンド名からRailroadが取れてグランド・ファンク(Grand Funk)となってしまい、実際にはそれまでのファンにとっては複雑な思いもあった。オルガンやクラビネットが跳ねる微妙なポップ・ロックになってしまったと言えないこともなかったからだ。

しかし、私にとっては自分自身がG.F.Rに投影していたものを気づかされたアルバムでもあった。それは、収録されていた「レイルロード(The Railroad)」の存在だった。バンド名から抜けた「Railroad」を曲名として収録され、オルガンの荘厳な響きが曲調を盛り上げていてプログレッシヴ・ロック的だった。彼らがハード・ロックをより広い音楽性まで高め、それが一般的な評価として位置づけられたと思えるからだ。それまでにオールマン・ブラザーズ・バンド(Allman Brothers Band)「エリザベス・リードの追憶」「アトランタの暑い日」にも似た米国的プログレの感性を感じ取った。G.F.Rというバンドの功績はじつに大きかったことを改めて振り返ることができる。

★音源資料F 「The Railroad」

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レッド・ツェッペリン(Led Zeppelin)をはじめとする英国勢、ディープ・パープル、ブラック・サバス等がロックの新たな方向性を示し歴史に位置づけられるのは当然のことだ。しかし、G.F.Rはロックとして登場したものの、それまでの米国のポップ・ミュージックの既成概念に対して新たな領域を開拓したことをいち早く世界中に示し認知させたということではなかろうか。実際、『アメリカン・バンド』の成功以来、過去のアルバムが再発売され追体験するファンが多かったのも事実だ。(CD時代になって同様に再発を繰り返す度に好セールスとなっているし、リマスターには未発表音源が含まれていてそれらには興味深いものが多く、何度も買ってしまうのは私だけではないだろう。)




グランド・ファンク・レイルロード 『シャイニン・オン』以降

◎画像14 Shinin’ On + Lodo-Motion single

続く74年10枚目『シャイニン・オン(Shinin’ On)』には私は正直言ってはぐらかされた思いが強かった。まずは子供だましのように思えるジャケット。そして最初にシングル・カットされたのが意表を突くリトル・エヴァ(Little Eva)「ロコ・モーション(Loco-Motion)」のカバー。言うまでもなくキャロル・キング(Carol King)とジェリー・ゴフィン(Gerry Goffin)が作った62年のナンバー1ソングだ。タイトル曲を含め、そのカバーもが今述べたそれまでのポップ・ミュージックの概念を打ち破ることにもつながっていくと言えるだろうか。単なるノスタルジックな回顧ではなかっただろうとは思う。結果的に「ロコ・モーション」は全米1位、アルバム自体5位という相変わらずの大成功を収めるのだから見事というしかないのだが、個人的にはそこまで突き詰めなくてもよかったのに・・・なんて複雑な思いになってしまう。

あわせて、収録された「キャリー・ミー・スルー(Carry Me Through」では、全体にスペイシーなキーボードで前作から引き続きプロデュースを担当したトッドの感性が感じられるが、そこでのギターはトッド自身で、マークはオルガン役に回っているのもどこか不安になったことを思い出す。「ミスター・プリティ・ボーイ(Mr.Pretty Boy)」はまた不思議な曲調で、メロトロンも登場する。私にとっては、何度聞いても不思議な作品でしかない・・・・ほっと出来るのは最終曲「リトル・ジョニー・フッカー(Little Johnny Hooker)」だけだったかな。

何となくギミック的になっていくG.F.Rに寂しさを覚えるのは私だけではなかったと思うのだが、彼らはその後も同74年12月に11枚目『ハード・ロック野郎(世界の女は御用心)All The Girls In The World Beware!!!』、75年8月には12枚目2枚組ライヴ『グランド・ファンク・ツアー’75(Caught In The Act)』、76年1月には13枚目『驚異の爆走列車(Born To Die)』をジミー・イエナー(Jimmy Ienner)のプロデュースで発表し、同年8月には何とフランク・ザッパ(Frank Zappa)のプロデュースで、『Good Singin’ Good Playin’』(MCAから)を出すところでひとまずアルバム・リリースを終える。

◎画像15 1974-1976

それらの中からシングル・ヒットも生まれ、アルバムもそれなりのセールスを記録するのだが、やはりそれまであったイメージからは大きく離れていったという寂しさを感じてしまう。

『アメリカン・バンド』までの凄さ、すさまじさは不滅であることは繰り返すまでもない。それまですべてのアルバムがプラチナム、もしくはゴールド・アワーズに輝いている実績も、チャート・アクションも無敵であった。

彼らは、80年までさらに2枚のアルバムを出しツアーも続けるが、82年に一度解散状態となる。それまでにも77年にマークのソロや、78年にはマーク抜きのメンバーでフリント(Flint)としてのアルバムを出していたが、かつての結束力は時代の流れの中で失われていった。95年には再び集まって98年までツアーを行った。その後マークが完全に脱退状態となり、残ったドンメルが新たなメンバーを連れて現在も活動を続けている。特に昨2019年は結成50周年ということでイベントを立ち上げた。各会場に20000人以上が集まったというのだから凄い。(バンドのHP <grandfunkrailroad.com>にわかりやすく掲載されているので参照されることをお勧めする。)




70年代初頭 チャートに見るハード・ロックのヒット曲

70年初頭の日本の洋楽チャートは理想的な混沌状態にあったと思う。ポップ・ミュージック、映画音楽等と並んで以下のような曲がTop40に顔を出していた。そのことがハード・ロックに対しての理解が大きく広がっていったと考えられる。(参考:All Japan Pops:初登場段階の年代を表記)


G.F.R「ハートブレイカー」(70年5月)、「グッド・マンズ・ブラザー」(70年8月)「アー・ユー・レディ」(71年2月)、「孤独の叫び」(71年5月)、「ギミ・シェルター」(71年11月)、「戦争をやめよう」(72年1月)、「フット・ストッピン・ミュージック」(72年2月)に前後して、ハンブルパイ「あいつ」(69年12月)レッド・ツェッペリン「グッド・タイムス・バッド・タイムズ」(69年7月)「胸いっぱいの愛を」(70年1月)「リヴィング・ラヴィング・メイド」(70年4月)「移民の歌」(70年12月)「ブラック・ドッグ」(71年12月)「ロックン・ロール」(72年6月)、フリジド・ピンク「朝日のあたる家」(70年4月)ディープ・パープル「ブラック・ナイト」(71年4月)「ファイアーボール」(72年1月)「ハイウェイ・スター」(72年8月)、ジェフ・ベック・グループ「監獄ロック」(70年2月)、UFO「カモン・エヴリバディ」(71年1月)、ブラック・サバス「パラノイド」(71年1月)、マウンテン「アニマル・トレーナー」(72年2月)「暗黒への旅路」(72年7月)、ユーライア・ヒープ「対自核」(72年3月)「七月の朝」(72年8月)「安息の日々」(72年10月)といったナンバーがヒット・チャートに顔を出していた。
(これ以前に68年にはブルー・チアー「サマータイム・ブルース」、アニマルズ「スカイ・パイロット」、ステッペン・ウルフ「ワイルドで行こう」「マジック・カーペット・ライド」「ロック・ミー」、ドアーズ「ハロー・アイ・ラヴ・ユー」「タッチ・ミー」、アーサー・ブラウン「ファイアー」、クリーム「ホワイト・ルーム」、バニラ・ファッジ「キープ・ミー・ハンギング・オン」「ショットガン」等が挙げられる)


それまではポップ・ソングを聞いてきた者やチャート・マニアにとっては、好き嫌いにかかわらずハードな音楽という刺激的な世界が到来したと言える。そして、興味を持った者はアルバムに手を伸ばしディープな世界にはまっていくことになるわけだ。

私のハード・ロックの入り口は、G.F.Rの一連のシングルと同時にツェッペリンの「移民の歌」パープルの「ブラック・ナイト(Black Night)」UFOの「カモン・エヴリバディ(C’mon Everybody)」ユーライア・ヒープの「対自核(Look At Yourself)」だった。パープルのシングルのジャケットがアルバム『イン・ロック(In Rock)』と同じデザインでホントにカッコいいと思った。しかしアルバムにはなぜか「ブラック・ナイト(Black Night)」が入っていないことを知ってちょっと驚いた。次にシングルになった「ファイアーボール(Fireball)」にも夢中になった。初めて自分専用のラジカセを買ってもらい電源を入れて最初にFMから流れてきたのが「ハイウェイ・スター(Highway Star)」だった。

その頃は、何となくポップス方面では英国ものに好みのものが多いかなと感じた頃ではあったが、英米の違いというものはあまり意識していなかった。

◎画像16

ヒープの方は、その「対自核」という不思議な邦題のインパクトが大きかった。アルバム・ジャケットは鏡のような銀紙が大きくはめ込まれていて「そうか、自分自身をしっかり見ろ!ということだな」と得心し面白さを感じた。パープルの「ブラック・ナイト」はそれまでの東芝WBから新興のワーナー・パイオニアから出されたところ、ツェッペリンの「移民の歌」まではポリドールから出されていたが、やはりワーナー・パイオニアに移るところだった。ヒープ日本コロンビアBronzeレーベルから出ていることを知り、今になって考えるとそうしたエピソードの一つ一つがレコードの持つ文化の面白さとして自分の中ではまっていくことになる。そんな中でG.F.Rは東芝(のちのEMI)の老舗Capitolからのリリースということで安定していた印象があった。

◎画像17 レア・シングル

ここに目を通していただいている方は、状況こそ違え似たようなG.F.R体験をしたものと想像しながら今回の原稿に向かいました。当時の雰囲気を少しでも思い出してもらえるようにと考えましたが、やはり個人的な体験を伝えることは思いが先走って文章にすることはなかなか難しいと改めて感じました。興味深いのは、これからはじめて聞く方が、G.F.Rをどう聞くのだろうかということです。Youtubeでは、「孤独の叫び」を初めて聞く人々の表情を追った海外の映像がけっこうな数あってそれは興味深いのですが・・・

次回は、やはりその昔ワクワクしながら聞いた同じ米国のマウンテン(Mountain)を取り上げてみたいと考えています。





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