アメリカン・フォーキー・ミュージック特集
- 皆さん、こんにちは。芹沢聡一郎です。今日は「アメリカン・フォーキー・ミュージック」というテーマで特集をしていきます。古くからあったフォーク・ソングが人々に広まって、様々に変化し、やがてシンガー・ソングライターへと繋がってく流れを見ていこう。
カケレコ君は、「フォーキー・ミュージック」と聞いてどんなことが思い浮かぶ?
- そうですね…ジェイムス・テイラーが思い浮かびました。
- 「君の友だち」です。キャロル・キングの曲をカバーして、大ヒットするんですよね。あのアコギの優しい音と、「つらい時はすぐに駆けつけるよ」っていう歌詞は心に響きます。
- そうだね。「君の友だち」は、キャロルやジェイムスの身近な心情を歌って、全米ナンバー・ワンの大ヒットになったんだ。
- それは、当時の時代背景が関係しているんだ。60年代のアメリカは反戦運動をはじめとして、人々が団結して権力に立ち向かう動きが大きくなっていった。ウッドストック・フェスティバルのように、ロックをよりどころとして、平和な世界を作ろうという動きもあった。
- うむ。しかし、平和な世界は訪れず、差別も無くならず、ロックは次第に商業に飲み込まれていく。みんなで集って社会に抗えるといった理想が、崩れ落ちていったんだ。
- 70年代の初めには、ロック・ミュージックを先導していたビートルズも解散して、ジミ・ヘンドリクスやジャニス・ジョプリンなどのロック・スターの死が相次ぎますね。
- そうだね。そんな時代を過ごした人々は、一つの時代が終わったのを感じ、やるせない挫折感と疲労感を味わっていた。それで次第に、内省的な音楽が求められるようになっていくんだ。
- なるほど。それで、自分自身や、その周りを深く見つめる歌が出来てきたんですね。そういった事を歌っていたのは、ジェイムス・テイラーが最初なんですか?
- ジェイムス・テイラー達のような内省的なシンガー・ソングライターは、時代背景に寄り添って生まれてきたけれど、それ以前にも、自分の思いを曲にして歌っていた人たちがいたんだ。
- フォーク・シンガー達だね。カケレコ君は、50年代半ばからアメリカで巻き起こった、フォーク・ブームは知っているかな?
- ボブ・ディランが、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジで盛んにフォークを歌っていた頃のムーブメントのことですね。
- そうだね。フォーク・ブームからシンガー・ソングライターまで、ざっと言えば、フォークの発掘 ⇒ 大衆化 ⇒ 社会化 ⇒ 夢の終焉 ⇒ SSWとなる。
- 収集家によって古くからあったフォークが発掘されて人々に広まり、新しく歌詞をつけて歌うシンガーが出て、やがてそれが大衆化し、社会的な意味を帯びてくる。
だけれど、60年代のカウンター・カルチャーが崩壊したことで、社会的主張より個人的な事柄を歌うようになっていくんだ。
- なるほど。フォークが色々な変遷を経て、シンガー・ソングライターへと繋がっていったんですね。
- そうだね。それではフォーク・ブームの始まりから、見ていこうか。
フォーク・ブームのはじまり(1930~1940年代)
目次
1、フォークの収集家たち
2、アメリカン音楽の源泉が詰まったコンピレーション「アンソロジー・オブ・アメリカン・フォーク・ミュージック」
3、「フォーク・ソングの父」ウディ・ガスリー
1、フォークの収集家たち
1930年代、テキサス州の民俗音楽研究家であるジョン・ローマックスとアラン・ローマックス親子が、国会図書館の委託を受け、全米を旅してフォーク・ソング/ブルースを収集しました。
レッドベリーやマディ・ウォーターズを刑務所や農場で「発見」し紹介したり、ウディ・ガスリーやピート・シーガーの活動を支えたり、ラジオ局でのフォーク音楽の番組制作に携わったりなど、彼らの活動によってフォーク・ブームが押し進められました。
2、「アンソロジー・オブ・アメリカン・フォーク・ミュージック」
1952年、29歳の青年ハリー・スミスが「アンソロジー・オブ・アメリカン・フォーク・ミュージック」を発表しました。
ハリー・スミスはオレゴン州生まれの民族音楽を熱心に研究していた芸術家/学者。
このアンソロジーは、1927~32年にアメリカ各地で録音されていた78回転レコードの音源を集めたもので、カントリー・ブルース、バラッド、ケイジャン・ソング、ジャグ・バンドなど、アメリカ音楽の源泉がぎっしりと詰まった内容でした。
このレコードはボブ・ディランをはじめとして多くのミュージシャンに影響を与え、フォーク・ブームに関わったミュージシャンたちは皆熱心に聴いて研究をしていました。
3、「フォーク・ソングの父」ウディ・ガスリー
ボブ・ディランにとってのヒーローだった事でも有名な、ウディ・ガスリー。数多くのアーティストに影響を与え、フォーク・ブームの精神的な支えとなりました。
ウディ・ガスリーが生まれたのは1912年オクラホマ州。
もとは裕福な家庭でしたが、1930年代の大恐慌の時代に入ると事業が立ち行かなくなり、度重なる不幸に襲われ一家離散、10代で職を求めながらさすらう人生となりました。
看板書きをしたり路上で当時のヒット曲を歌って日銭を稼いでいましたが、次第に自分で曲を作るようになります。
アメリカのトラディショナル・ソングやヒルビリーの有名曲を借りて、オリジナルの歌詞をつけるというやり方でした。
仕事を求めてアメリカを放浪する人たち(ホーボー)とともに全国をまわり、貧しい人々の暮らしや労働の過酷さを歌いました。
また当時オクラホマ州には「ダスト・ボウル」という砂嵐が度々襲いかかり、農作物や家畜は全滅し、貧困と砂塵による肺炎が人々を苦しめていました。
白人の入植によって土地が瘦せたことが原因とも考えられ、人災とも言える過酷な砂嵐。この砂嵐を主題としてウディはいくつも曲を書き、その楽曲群はアラン・ローマックスによりレコーディングされ、ニューヨークのフォーク・シーンに大きな影響を与えました。
「ダスト・ニューモニア・ブルース」ではこう歌っています。
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医者へ行ったら、こう言われた
「こりゃ砂嵐肺炎だ、長くはないよ」
この歌にはヨーデルを入れなきゃならないけど
肺がごろごろ、できやしない
※『ウディ・ガスリー/リジェンダリー・パフォーマー (BVCP7445)』「Dust Pneumonia Blues」より
- カケレコ君、ウディ・ガスリーのこの歌を聴いて、どう思った?
- 素朴なフォーク・ソングですね。歌詞を見ていると、当時のアメリカの人たちの貧しさや労働の厳しさが伝わってきます。
- そうだね。だけれどウディ・ガスリーは、ただ悲惨な出来事をそのまま歌うんじゃなく、巧みに韻を踏んでユーモアを交えて歌ったんだ。
- 確かにウディの音楽を聴いていると、「こんな暮らしもう嫌だ」っていうよりは、「仕方ないな、でも生きていかなきゃなあ~」っていう明るい諦め、微かな希望のようなものが湧いてきます。
- そうだね。それからね、彼の音楽は、フォーク・ソングが社会情勢を反映したメッセージ・ソングとなり得ることを若いミュージシャンに知らしめんだよ。ウディ自身はそこまであからさまに「反体制」の歌を書いたわけではないんだけどね。
- ランブリン・ジャック・エリオット、ボブ・ディラン、トム・パクストン、フィル・オクス、ライ・クーダー、ブルース・スプリングスティーンなど、彼に影響を受けたミュージシャンは沢山いるんだ。
さあ、次はウディに影響を受けたひとり、ピート・シーガーについて辿って、フォーク・ブームを見ていこう。