2020年4月24日 | カテゴリー:世界のロック探求ナビ
タグ: 米SSW
目次
1、幽玄な12弦ギターとバリトン・ボイスで漂泊する魂を歌う、フレッド・ニール
2、ジャズを取り入れた先進的なサウンドで妻子への愛と未練を歌う、ティム・ハーディン
3、イメージを膨らませる歌詞で時代を切り取ったボブ・ディラン
モダン・フォークやプロテスト・フォークで賑わっていたフォーク・ブームのなかで、次第にシンガー・ソングライターの萌芽とも言える独自のサウンドを持ったアーティストが表れてきました。
その一人が、フレッド・ニール。
オハイオ生まれのフレッド・ニールは、50年代後半にニューヨークに出てきて、バディー・ホリーやロイ・オービソンのソングライターとして活動し、やがてグリニッジ・ヴィレッジのコーヒー・ハウスで歌い始めるようになります。
同じ時代の多くのフォーク・シンガーが反戦や反人種差別を歌にしたのに対し、フレッド・ニールは個人的な心象風景や人生について歌い、いち早く「シンガー・ソングライター」的な曲を書きました。
また、その12弦ギターの波打つような独特な音色や、深みのある低音のボーカルは幻想的な響きを醸し出しており、ブルースを根幹とした妖艶なサウンドとなって、ジョン・セバスチャンやカレン・ダルトンなど多くのミュージシャンに影響を及ぼしました。
それでは、フレッド・ニールから2曲ピックアップいたしましょう。
65年作より、「Other Side To This Life」。
60年代前半にビーチ・ボーイズを手掛けたキャピタル・レコードのプロデューサー、ニック・ヴェネットがプロデュースしており、ブズーキーやドブロ・ギター、そして12弦ギターがエコーの中鳴り響く浮遊感あるサウンドになっています。
「Other Side To This Life」の歌詞を見ていきましょう。
秘密を知りたくないかい
あなたや私の中にある秘密
次にどこに行くのか分からない
何になるのかも分からない
—————-
だけど、それは私が送ってきた暮らしの一面
それは、この人生の一つの一面
—————-
半分も何をやっているのか分かっていない
どこに行こうとしているのか分かっていない
ボートを買おうかと思う
メキシコ湾にでも出てみようか
—————-
だけど、それは私が送ってきた暮らしの一面
それは、この人生の一つの一面
—————-
世界は大騒ぎ
逆さになるほど混乱してる
ここで何をしているか分からない
私はいつもぶらついている
—————-
だけど、それは私が送ってきた暮らしの一面
それは、この人生の一つの一面
「Other Side To This Life」
少年期は南部を転々としていたというフレッド・ニール。
どこに向かっているのか、何をしているのか、分からずさまよい歩く様子が伝わってきます。
続いて、66年作より「Everybody’s Talkin’」。
邦題「うわさの男」で、映画『真夜中のカーボーイ』にてニルソンが歌いヒットした楽曲です。
太陽が輝いているところへ行く
このどしゃ降りの雨を抜けて
来ている服にぴったり合うような場所へ
北東の風を避けて
夏の風を帆に受け
放り投げた小石のように
海を越えて
「Everybody’s Talkin’」
ゆらめく低音のボーカル、そして幽玄な12弦ギターの音が、妖しげな魅力を持って迫ってきます。
伝承歌をそのまま歌うのでもなく、社会に抗うスタンスで歌うのでもなく、自分の思ったこと/感じたことを、独自の言葉で表現しています。
歌っているのは、放浪し漂泊する人生。その自由と虚しさが、風景や夢想をぶっきらぼうに歌うことによって浮かび上がっています。
フレッド・ニールの楽曲は、60年代という時代を感じさせません。歌唱やギターの独創性もさることながら、どこから来てどこへ向かうのか分からない、人という存在の本質を歌っているからではないでしょうか。
フレッド・ニールと同じようにグリニッジ・ヴィレッジで異彩を放っていたのがティム・ハーディン。
オレゴン州で生まれたティム・ハーディンは、父親がジャズ、母親がクラシックのミュージシャンという音楽的に恵まれた環境で育ちました。
18歳で高校を中退し海兵隊に加わり、その後61年にニューヨークへと出てグリニッジ・ヴィレッジで歌い始め、フォーク・ロックの流行に先立ってエレクトリック・ギターでブルースを弾き語る独特のサウンドで演奏していました。
ラヴィン・スプーンフルのプロデューサー、エリック・ジェイコブセンに見出されてコロンビア・レコードと契約、66年に1stアルバムをリリースしました。
フォークやブルースを軸としながら、Gary BurtonやPhil Krausなどジャス畑のミュージシャンを起用した、洗練されたアレンジで聴かせます。
また、ティム・ハーディンは、妻への想いや心の痛みなど私小説的な楽曲を多く書いており、率直な表現と心の内をさらけ出す言葉が、同時代のシンガーの中で先立って「シンガー・ソングライター」的でした。
67年にリリースされた『TIM HARDIN 2』から、「If I Were A Carpenter」を聴いてまいりましょう。
もし僕が大工で
きみが貴婦人だったら
それでも結婚してくれるかな
子供を産んでくれるかな
「If I Were A Carpenter」
驚くほど、率直で飾り気のない言葉です。不器用ながらも人を想う心が伝わってきます。
ティム・ハーディンは、65年にロサンゼルスに滞在していた時に後の妻となるスーザンに出会い、幸せな家庭を築き子供も生まれます。
69年には『スーザン・ムーアとダミオンの為の組曲』という妻子への思いを込めたアルバムをリリースするくらい、ティムにとって家族は創作や生きる上での力の源となっていました。
しかし、その録音から暫く経ったあと、ティムのドラッグ癖のために関係が悪化し、スーザンは離れて行ってしまいます。
スーザンとの別れの後、71年にリリースされた『BIRD ON A WIRE』から、「Love Hymn」を聴いてまいりましょう。
偶然彼女と話したんだ
とても美しくて
一目見て聖女だと分かった
500万分の1の確率で
彼女は恋に落ちたんだ
彼女にとっくに恋してた僕と
—————-
その愛は大きくて美しく
僕は熱に浮かされた
だけれど僕の中にわだかまりがあって
彼女を芯から信じようとしなかった
(略)
僕が少し離れているうちに
彼女はロサンゼルスに行ってしまった
「Love Hymn」
この曲では、スーザンとの出会いから別れを私小説風に綴っており、素朴に綴られた心情に胸が痛みます。
スーザンとの幸せな暮らしがありながらも、戦地で覚えたというドラッグから抜け出す事が出来なかったティム・ハーディン。
その後のティムは、スーザンへの思いを断ち切れず悲しみに打ちひしがれ、またドラッグとアルコールへの依存が激しくなり、80年に39歳という若さで亡くなっています。
何もこんなに正直に曲にしなくても良いのに…と思ってしまいますが、ままならない人生や心の痛みを、静かな言葉で淡々と歌うティム・ハーディンに、胸打たれます。
「プロテスト・シンガーの旗手」としてグリニッジ・ヴィレッジで大人気だったボブ・ディラン。
洗練された比喩表現で聴き手ごとに想像を膨らませるその歌詞は、他のミュージシャンの中で際立って優れており、言葉一つ一つの鋭さが群を抜いていました。
64年の『The Times They Are A-Changin'(時代は変る)』より表題曲を聴いてまいりましょう。
集まってくれ
うろついている人たち
水かさが増しているのを見てごらん
骨までびしょ濡れになってしまう
もし時間が貴重だと思うなら
泳ぎ始めた方がいい
そうしないと石のように沈んでしまう
時代は変わりつつあるんだ
—————-
線は引かれ
呪いはかけられた
遅れている者は、のちに先を行く者になる
現在がやがて過去になるように
秩序は色あせ
先頭にいるものが一番最後になる
時代は変わりつつあるんだ
「The Times They Are A-Changin'(時代は変る)」
「The Times They Are A-Changin'(時代は変る」は、ケネディの大統領就任演説にヒントを得て作られたものとされ、古い価値観が時代遅れとなっていることを説くメッセージソングとなっています。
アパラチア山脈に伝わるトラッドの「Come gather round…」と民衆に呼びかけるフレーズ。これをボブ・ディランは63年という時代に改めて当てはめて、再解釈し、プロテスト・ソングとして世に放ったのです。
のちのケネディ大統領の暗殺を予感していたと言われるくらい時代を敏感に察知した楽曲ですが、当時だけでなく、古今東西のあらゆるところで感じ取ることができるテーマです。
価値観や秩序はどんどん移り変わっていき、昨日良いとされていたものが明日は変わってしまう。固執せず、泳いでいかねばならない。イメージを膨らませる言葉をうまく使って颯爽と歌うボブ・ディランに、気持ちが新たになります。
しかし、ボブ・ディランは次第に社会派のシンガーとしてもてはやされることに、嫌気がさしてきます。
ボブ・ディランは表現したいことの手段としてフォークを選んでいましたが、そろそろフォークの限界を感じていたようです。
1964年、ビートルズがアメリカに上陸した年にリリースされたのが『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン』です。
プロテスト・ソングが大半を占めていた前2作に比べて、個人的な思いを綴った楽曲が多くなっています。
アルバム冒頭曲「All I Really Want To Do」を聴いてまいりましょう。
きみを競争相手にしようとか
なぐろうとか だまそうとか 虐待しようとか
きみを単純化しようとか 分類しようとか
否定し無視し 十字架につるそうとか
そんなことをしようというのではない
ほんとうにやりたいことは ねえ
きみと友だちになりたいんだ
—————-
きみをでっちあげようとか
とろうとか ゆさぶろうとか すてようとか
しようというのではない
ぼくとおなじように感じてほしいとか
見てほしいとか ぼくとおなじようであって
ほしいとか もとめているのではない
ほんとうにやりたいことは ねえ
きみと友だちになりたいんだ
「All I Really Want To Do」(片桐ユズル 訳)
色々な捉え方が出来るボブ・ディランの詞ですが、これはプロテスト・シンガーとしてのボブ・ディランを求めていたファンに向けて書いたとも解釈ができます。
音楽に過剰に「意味」を付け、フォークという形式にこだわり続けるファンたちに「プロテスト・フォークの旗手」と祭り上げられて、うんざりしていたのではないでしょうか。
「時代は変る」と歌ったボブ・ディラン自身も、変わり始めていたのです。
もう一曲聴いてまいりましょう。「My Back Pages」。
耳のなかで縛られた真紅の焔が
高くころがり大きなワナ
焔の道に火とともに跳ねる
思想をわたしの地図としながら。
「せとぎわであうだろう、じきに」とわたしは言った
ひたいをあつくして誇らかに。
ああ、あのときわたしは今よりもふけていて
今はあのときよりも ずっとわかい。
—————-
なかば難波した偏見が跳び出し
「すべての憎しみを引き裂け」とわたしはさけんだ
生きることは黒と白だというウソが
わたしの頭蓋骨からしゃべる夢をみた
銃士のロマンチックな事実は
ふかい基礎をもっている ようだ
ああ、あのときわたしは今よりもふけていて
今はあのときよりも ずっとわかい。
「My Back Pages」(片桐ユズル 訳)
「黒と白」「善と悪」ときっちり決めつけて「プロテスト・フォーク」を歌っていた自らと、決別しているように聴こえます。
何かに凝り固まることが、ディランにとって老いを招いていたのでしょう。
このアルバムの翌年、ボブ・ディランはニューポート・フォーク・フェスティバルにて「電化」します。
ギター弾き語りが基本だったフォークから、バンドを従えたロック・スタイルへとサウンドを変更し、ファンに大きな衝撃を与えるのです。
その後もボブ・ディランはザ・バンドと共にルーツ・ミュージックに接近したり、カントリー・ミュージックやゴスペルを取り入れたサウンドへと様々に変化していきます。
1964年、ボブ・ディランが「プロテスト・シンガー」から見事脱皮したのが、この「アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン」だったのです。
当時のアメリカ社会の動きも「シンガー・ソングライター」の登場に関わっていました。
60年代のアメリカはは反戦運動や公民権運動など、人々が一致団結して権力に立ち向かう動きや、「共同体生活」への回帰を謳うヒッピーなどのカウンター・カルチャーが広まり、激しく揺れ動きます。
しかし、戦争は終わることなく泥沼化し、差別もなくならず、カウンター・カルチャーは次第に商業に飲み込まれていきます。
「ロックで皆と一つになれる、社会に抗える」といった理想が、崩れ落ちていくのです。
そして60年代が終わると、時代の終焉を告げるかのように多くのカリスマ・ミュージシャンが亡くなり、ビートルズも解散してしまいます。
12月 ローリング・ストーンズのコンサート中に観客が殺害される「オルタモントの悲劇」が起こる
1970年
4月 ビートルズ解散
9月 ジミ・ヘンドリクス没
10月 ジャニス・ジョプリン没
1971年
7月 ジム・モリスン没
10月 デュアン・オールマン没
さあ、いよいよジェイムス・テイラーの登場だよ。「シンガー・ソングライター」と呼ばれる代表的なアーティストを見ていこうか。
コメントをシェアしよう!
カケレコのWebマガジン
60/70年代ロックのニュース/探求情報発信中!