2020年4月24日 | カテゴリー:世界のロック探求ナビ
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親しみやすいコーラス・ハーモニーが魅力のモダン・フォーク・ブームを巻き起こしたり、戦争や差別に立ち向かうプロテスト・フォークの先陣を切ったりと、ピート・シーガーの軌跡を辿ればフォーク・ブームの歴史が分かる、と言えるほどその中心となって活躍したんだ。
ここからは、ピート・シーガーを紐解きつつ、フォーク・ブームを見ていくよ。
1、フォーク・ブームの中心人物、ピート・シーガー
2、ピート・シーガーがもたらしたもの①モダン・フォーク・ブーム
3、ピート・シーガーがもたらしたもの②プロテスト・フォーク
ウディ・ガスリーに続いて、フォーク・ブームの中心人物となったのが、ピート・シーガー。
1919年、音楽学者の父とヴァイオリン奏者の母という絶好の環境のもと、ニューヨークに生まれたピート・シーガーは、早くから音楽に興味を示し、ウクレレやバンジョーを習得しました。
ハーヴァード大学入学後にはアメリカン・フォークにのめりこみますが、ウディ・ガスリーの生き方に影響されたこともあって、1938年には大学を中退します。
退学後にはアラン・ローマックスの助手としてフォーク・ソングの収集を行い、やがてフォーク・シンガーとして生計を立てる決心をします。
アランの勧めでフォークのラジオ番組に出演するようになり、レッド・ベリー、ウディ・ガスリーらとともに放送に出演していました。
ピート・シーガーはウディ・ガスリーの活動を見て、フォーク・ソングが人々ににメッセージを発信し、社会に対抗できるツールになり得ることを確信します。
そして1941年、ピートの親友で活動家のリー・ヘイズ、脚本家のミラード・ランペルとともに、オールマナク・シンガーズが結成されます。メンバーは流動的で、のちにはウディ・ガスリーも在籍していました。
オールマナク・シンガーズは労働や人種の問題など時事的な事柄を歌にし、いわば「歌う新聞」として機能していました。
戦後の1949年にはウィーヴァーズと改名し、1950年、レッドベリーの代表作であった「グッドナイト・アイリーン」をカバーしたところ200万枚のセールスを記録する大ヒットに。
ところが、彼等は時事的/社会的な内容を歌っていたこともあって、冷戦を背景とした赤狩りの対象になり、活動停止を余儀なくされてしまいます。
しかし50年代後半には、ウィーヴァーズの音楽性や精神性を受け継いだグループが次々と生まれます。彼らはモダン・フォークと呼ばれて流行します。
その筆頭として挙げられるのが、キングストン・トリオ。
彼らはサンフランシスコで結成されたグループで、1958年の「トム・ドゥーリー」は全米ナンバー1の大ヒットを記録します。
その美しいコーラスと、ポップで軽快なサウンドは特に学生たちの支持を得て多くのフォロワーを生み、世界的なブームとなります。
続いて1960年、西海岸ではシアトルのワシントン大学の学生たちが組んだブラザーズ・フォーが「Green Fields」でヒットを飛ばします。
ソフトなハーモニーと爽やかなイメージで人気を博します。
東海岸のモダン・フォーク・グループの代表は、ピータ・ポール・マリーです。
ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジで結成された3人組は、美しいハーモニーと洗練されたサウンドで、世界中で人気を博しました。
また、カナダからは男女デュオ、イアン&シルヴィアが登場しました。彼らはボブ・ディランやピーター・ポール&マリーのマネージャー、アルバート・グロスマンの後押しもあって大人気となります。
モダン・フォークは都市部の大学生を中心とした若者に広がり、「カレッジ・フォーク」と呼ばれ世界中に広まりました。
日本でも、マイク眞木によるモダン・フォーク・カルテット、黒澤久雄によるブロードサイド・フォー、森山良子などが活躍しました。
60年代になると、フォークは公民権運動や反戦運動と結びついて、体制を批判する役割を担っていきます。
「花はどこへ行った」「天使のハンマー」など多くの曲を作ったピート・シーガーが、プロテスト・フォークの先駆者となりました。
また当時のフォーク・ファンでは『シング・アウト』や『ブロードサイド』など、フォーク情報誌が情報をもたらしていました。
ピート・シーガーも編集に携わったその雑誌には、当時の時事的な問題を歌うトピカル・ソングが多く掲載され、ボブ・ディランの「風に吹かれて」も載り多くの反響を呼んでいました。
それでは、プロテスト・フォークと呼ばれる楽曲をいくつか聴いてまいりましょう。
世界で最も有名な反戦歌とも言われる「花はどこへ行った」。
ピート・シーガーがロシアの小説家、ミハイル・ショーロホフの『静かなドン』の一節にヒントを得て書き上げました。
キングストン・トリオやピーター・ポール&マリーがカバーし、多くの人に歌われていきました。
ピートの優しい歌声が心に染み入るとともに、戦争によって人の暮らしや幸せがむしり取られていく様子がシンプルな言葉で響いてきます。
花はどこへ行ったの?
女の子の元へ行った
女の子はどこへ行ったの?
若い男の元へ行った
若い男はどこへ行ったの?
兵役に行った
兵士はどこへ行ったの?
墓地に行った
墓地は花で覆われた
(抄訳)
ウディ・ガスリーに憧れて故郷ミネソタを飛び出し、61年にニューヨークに辿り着いたボブ・ディラン。
当時フォーク・ブームの真っ只中だったグリニッジ・ヴィレッジで注目を集め、62年にデビュー、63年に2nd『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』と矢継ぎ早にリリースしました。
アルバム冒頭の「風に吹かれて」は反戦や人種平等を訴える社会派のフォーク・ソングとして受け止められ、ボブ・ディランは一躍「プロテスト・ソングの旗手」として人気を博しました。
のちにフォークの枠を飛び出して、「ボブ・ディラン」というジャンルになっていくディランの歌詞をよく見てみると、単に社会へのメッセージというよりは、人の存在そのものの謎に迫っているように思えます。
いくつの海をとびこしたら 白いハトは
砂でやすらぐことができるのか?
何回弾丸の雨がふったなら
武器は永遠に禁止されるのか?
そのこたえは、友だちよ、風に舞っている
こたえは風に舞っている
「Blowin’ In The Wind」(片桐ユズル 訳)
ボブ・ディランと並んで「プロテスト・ソングの旗手」と呼ばれていたのがフィル・オクスでした。
テキサス州生まれのフィルは大学でジャーナリズムを勉強しており、やがてフォーク・ミュージックに熱中。時事的な問題を歌にして歌い、ボブ・ディランとライバルのように活躍していました。
しかし時代が進むと政治についての歌が流行らなくなり、ボブ・ディランもロック化していきました。
フィル・オクスは自身の生き方に悩み、アルコールへの依存などの問題もあり76年に35歳という年齢で自死してしまいます。
不器用にプロテスト・フォークにこだわり続けたフィル・オクスですが、そのパーカッシブなギター・プレイ、不安をはらんだような歌声、正面から社会を批判する鋭い歌詞は今聴いても心打たれます。
村を床まで燃やした
ジャングルを全て燃やした
ベトナムを自由にするために戦ってる
「Talking Vietnam」
フォーク・ブームの拠点となっていたのは、「コーヒー・ハウス」と呼ばれる場所でした。喫茶店というよりは、毎晩アマチュア・ミュージシャンが演奏を繰り広げるライヴ・ハウスといった趣で、全米各地に出現しました。
特に活発だったのがニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジです。この地区の「マクドゥーガル通り」と「ブリーカー通り」は、コーヒー・ハウスがひしめき合い、大変な賑わいを見せていました。
シカゴでは、1961年に「シカゴ・フォーク・フェスティバル」が、西海岸ではカリフォルニア大学のキャンパスにて「バークレイ・フォーク・フェスティヴァル」が開催されました。
そして最も影響力のあったのが、1959年にニューヨークのロード・アイランドにて開催された「ニューポート・フォーク・フェスティヴァル」です。
ニューポート・フォーク・フェスティヴァルは、ピーター・ポール&マリーやボブ・ディランのマネージャーだったアルバート・グロスマンが制作に携わり、ピート・シーガーも協力を惜しみませんでした。
ボブ・ディランやジョーン・バエズ、ピーター・ポール&マリーなどフォークの大スターを産んだこのフェスティヴァルは、フォーク・ブームの大きな柱となりました。
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