2010年10月22日 | カテゴリー:世界のロック探求ナビ
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はい、皆さん、こんにちは。
ニューヨークのマンハッタンで、コンサート・マスターの父とオペラ歌手の母の間に生まれる。
コロンビア大学の物理学研究室に勤務し、第二次世界大戦中だった18歳の時に徴兵されて
工兵として原子核工学を研究。それはマンハッタン計画に関わるものだった。
戦後は退役し、クラシック音楽関係の仕事を経て、1940年代末期、当時はまだ新興レーベルだった
アトランティック・レコードのレコーディングエンジニアとなる。
音楽と物理学の知識を生かしたトムの音作りは、1949年には既に評判となり、
1950年代にはレイ・チャールズやルース・ブラウン等のR&Bアーティスト、
チャールズ・ミンガスやジョン・コルトレーン等のジャズ・アーティストの多くの作品に関わった。
1960年代前半には、アトランティックと提携していたスタックス・レコードの録音機材を改修するため
メンフィスに出向き、同レーベルの音質向上に貢献。同社所属のミュージシャン達からも
尊敬されるに至った。トムの同社での仕事としては、オーティス・レディング
『オーティス・ブルー』(1965年)でエンジニアを担当したことも有名。
1960年代後半には、プロデューサ
ーとしてクレジットされることも多くなる。とりわけ、
アラバマ州マッスル・ショールズで手がけたアレサ・フランクリンの諸作は大ヒットとなった。
また、クリームの作品のエンジニアを担当する等、ロックの仕事も増えていく。
1970年代前半には、マイアミのCriteria Recording Studiosを拠点としてサザン・ロックの隆盛に貢献。
特に、かねてからデュアン・オールマンと親交があったこともあり、オールマン・ブラザーズ・バンドとの
関係は00年代に至るまで続くこととなる。1970年にはデレク・アンド・ザ・ドミノスの
アルバム制作にも関わった。1974年にはエリック・クラプトンの第一線への復帰に貢献し、
クラプトンとは1980年代中期まで、断続的ではあるが共同作業を行う。
ジェイムス・ギャングのアルバム『マイアミ』(1974年)では、
プロデュースのみならずキーボードの演奏でも参加。1975年に渡米したロッド・スチュワートも、
トムがプロデュースしたアルバム『アトランティック・クロッシング』を大ヒットさせ、
1970年代後半を通してトムをプロデューサーに起用し続けた。
1990年代になっても、プライマル・スクリームの
『ギヴ・アウト・バット・ドント・ギヴ・アップ』(1994年)等を手がけた。
2002年、肺気腫で他界。
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2003年、トムの生前から企画されていたドキュメンタリー映画
『Tom Dowd & The Language Of Music』が公開。
2006年4月には『トム・ダウド/いとしのレイラをミックスした男』という邦題で日本公開。
from Wekipedia
(原題 TOM DOWD & THE LANGUAGE OF MUSIC)
http://www.uplink.co.jp/tom_dowd/
The Offending Instruments Blog
http://leopard.air-nifty.com/offending_instruments/2006/12/_tom_dowd_the_l_6e36.html
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