2019年4月5日 | カテゴリー:Column the Reflection 後藤秀樹,ライターコラム
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今回はポップスの歴史の狭間に眠っている英国の3つのグループを取り上げてみたい。
「明日なき幸せ」のウェイク、「孤独の夜明け」のマジック・ランタン、「夜明けのヒッチハイク」のヴァニティ・フェアというラインナップだ。どれも70年代の初頭、日本でヒットした曲なのだが、その後話題になることもなく、今では忘れられた存在ではある。が、昔の仲間との飲み会ではもの凄く懐かしく盛り上がるネタではある。
複数のヒット曲を持つアーティストやバンドならともかく、一発屋となればその前後の経緯はよほどのファンでなければ気にも留めることはないだろう。そして、必ずしも今の音楽シーンにつながるものがあるわけでもない。
◇「明日なき幸せ」「孤独の夜明け」「夜明けのヒッチハイク」のシングルジャケット
時代は間もなく新たな年号「令和」となるが、これらのヒット曲は平成をさかのぼり昭和の洋楽ヒットだった。なぜ今更という声も聞こえてきそうだが、こうした隙間ヒットは改めてこうして取り上げなければ埋もれたままになってしまう。それはとても残念なことだ。私たちの音楽生活の原点とも言えるポップスに関して、今のうちに明らかに出来る部分もあるはずだ。ヒットの影に、当時の洋楽事情も見えてくる。今では、音楽ジャンルも多様化し、ネットを中心としたそれぞれのジャンルに特化したフォーラムが出来上がっているが、昔はラジオと雑誌がそのすべてだった時代を改めて振り返っておきたい。今回は1970年、元号でいえば「昭和45年当時にフォーカス!! 」ということでいきたい。
懐かしい音楽ではあるが、改めて聞いても新鮮であるということを再確認できたらと考える。
まずザ・ウェイク(The Wake)。日本ではデビューシングルとして「明日なき幸せ(Live Today Little Girl)」が出され、話題になった。当時のTBS系のラジオ番組「一慶リリィのヤングポップス1010」で、大プッシュされ火がついた。私も同番組を聞いて知った曲だった。
暗い旋律を持つフォーク・ロック(この言葉も懐かしい)なのだが、イントロの哀愁のギターとファルセットヴォーカルを加えたコーラスが印象的だった。ドラムスの刻み方が独特で特にバスドラを叩く音が結構目立つことが面白かった。歌詞のほうは若き日の青い恋心を幾分自虐的に歌ったものでちょっと拍子抜けしてしまったのだが。シングルの両面共にコンポーザーはメンバーのビル・ハード(Bill Hurd)。
今のAMラジオでは歌謡曲の世界のみ生き残っているが、レコード会社提供の番組というものがあった。70年代当初のレコード会社は東芝を筆頭に、キング、ビクター、ポリドール、CBSソニー、ワーナー・パイオニア、日本コロンビア、日本フィリップス・・・といった大手があり、それぞれが契約したレーベルを通じて海外のアーティストのレコードが発売されていた。有名無名を問わず、自社が抱えるアーティストをラジオという媒体で紹介するのだから興味深い世界だった。
先に挙げた番組は東芝の新譜を有名無名にかかわらずオンエアされることから毎日楽しみに聞いていた。今月の推薦曲として取り上げられた曲は結局繰り返し流れるので、いつの間にか頭の中にこびりついていったものだ。
さてザ・ウェイクだが、エセックスの出身。驚いたのはポップ・グループとしては異例のそのグループ名だった。Wakeとは普通はウェイク・アップ(Wake Up)で「目が覚める」を表すことが多い。しかし、辞書を引くと別の意味に「教会献堂記念祝祭;その前夜の徹夜祝祭」とあり、アイルランドの方言的な使用として「通夜」の意味がある。国内盤のシングル盤ジャケットを見るとメンバーの2人が喪服を着ており十字架を囲んで微笑んでいる不思議なポートレートだ。何を思ってそうした名前をつけたのかはよく分からないが、確かにインパクトはあった。
Wakeで思い出すのは、キング・クリムソンのセカンド・アルバムだ。原題はIn The Wake of Poseidonなのだが、邦題では『ポセイドンのめざめ』として発売された。これも後になってIn The Wake of~とは「あとを追って」と意味することが伝えられ、本来の意味は「ポセイドンのあとを追って」と呼ぶのが正しいのではないかと言われるようになった。
個人的にはタイトル曲の冒頭のメロトロンの立ち上がりの音色に「覚醒」が感じられ、邦題もいいのではないかと思った。が、同曲のエンディングはメロトロンに重なってコーラスのリフレインが延々と続き神話的な余韻を感じさせることから、「あとを追って」のイメージも伝わってくる。洋楽の邦題の決定に関しては難しさもあるだろうが面白さを感じるエピソードではある。
で、ザ・ウェイク。70年の2月にレコード・デビューとなっているが、メンバー個々にセッションマンとして仕事をしていた68年にプロモーターのマーヴィン・コン(Marvyn Conn)から声がかかり、バンドとしての形が出来上がった。そして69年9月にはシングル「Angeline」を既にザ・ウェイクとして出すもののヒットはしなかった。しかし、コンはPye傘下に新たにCarnabyレーベルを立ち上げたことから、セカンド・シングルとして70年2月に「明日なき幸せ/デイズ・オブ・エンプティネス」をリリースすることになるのである。日本盤シングルの写真は、「Angeline」の発売時広告として英国音楽紙に掲載されたものと同じ写真だった。
そして「明日なき幸せ」は日本でのみヒットする。
ただ、ウェイクは、私にとってバイブルの一つである「The Tapestry Of Delights」という英国音楽事典にも紹介されている。サイケからプログレの廃盤を扱う書籍なので、彼らもその類の音楽性を持ったグループとして見られていたのだろう。(ちなみに今回取り上げた3つのグループすべて同事典で取り上げられている。マイナーヒットを持つこうしたグループは、本国ではサイケ・ポップとして見なされている事情が読み取れる。)
ザ・ウェイクは「明日なき幸せ」の後に1枚アルバムを残し、さらに翌71年までに3枚のシングルを発表する。そして日本でもそのうち2枚のシングル「しあわせを求めて」「いとしのリンダ」をリリースするのだが、残念ながらヒットせず、出されていたことも既に忘れられてしまっている。
唯一のアルバム(LP)は日本でも発売されている。ジャケットを見て同じザ・ウェイクだとは気づかないほどにイメージが違うものだった。そして、裏ジャケットは当時の国内盤の多くがそうだったように解説になっていて本来の意匠はどうなのか気になって仕方がなかった。ずっと後年になってようやく原盤を見たのだが、その結果、さらなる謎を生む結果となった。
アルバム・タイトルは日本盤ではヒットした曲名そのままに『明日なき幸せ/ザ・ウェイク』となっていて、帯のコピーには「真夜中のロック・グループ登場」と書かれている。原題の『23・59』は夜中の11時59分ということで、明日につながる一歩手前の時間ということで、なるほど真夜中か・・・バンド名の「通夜」とも関わっているのだろう。ただ、ジャケットの折り曲げた足は「出産」を意味しているようにも思える。バンド名と合わせて考えると、「生と死、そして再生」といったところだろうか?
何となくプログレ的なコンセプト・アルバムの雰囲気があるが、アルバム自体基本的にはわかりやすいポップ・ロックだった。ビル・ハードが作った曲が多いのだが、どれもよく出来ている。4曲目の「ピカデリー・リリー(Piccadilly Lilly)」はディープ・フィーリングのメンバーが作った曲だ。あくまでポップで、マンゴ・ジェリーみたいだが・・・また「ブロークン・マン(Broken Man)」という曲はプロコル・ハルムの「青い影」を意識したナンバーだ。様々なタイプの曲が散りばめられていて楽しい。
◇ウェイク・アルバムジャケット 表・裏
さらなる謎についてだが、じつは、国内盤と英国原盤のアルバムの構成が大きく違っている。
2007年にエアー・メイルから原盤仕様の紙ジャケットが出されていたが、そこで始めて原盤では国内盤LPに入っていなかった「Auld Lang Syne」という曲が6回も入っていることに気が付いた。でも、その曲は日本では「蛍の光」として誰もが知っている曲であった。さらに驚くべきことに数秒で曲をブツ切りにした形で挿入されているのだ。
どうしてこんな形でのリリースにしたのか理解できないが、国内盤LPのほうがずっと彼らのポップな音楽性が伝わってくると思う。ただ、そうした事実を確認させてくれたエアー・メイル盤紙ジャケットには感謝であった。さらにはボーナス・トラックとしてその後のシングル曲も含まれているからとても便利だ。ただ、Pyeから出されていた最初のシングルが含まれていないのは仕方ないか。
中心メンバーだったビル・ハードはその後、74年に「シュガー・べービー・ラヴ」の大ヒットを飛ばすルベッツ(The Rubetts)に参加している。最初、同曲を聴いたときに「冒頭のハイトーン・ヴォーカルは、ウェイクのビル・ハードだ!」と思うほどに、「明日なき幸せ」のファルセットと似ていたのだが、残念ながら別人だったようだ。ただ、どちらにしてもアメリカン・ポップスをしっかりと影響として受けていたのがザ・ウェイクであり、ルベッツでもあったわけで、基本的にキーボード・プレイヤーとして歌も歌うビル・ハードはしっかりと存在感を見せていたと思える。
◇ザ・ウェイク国内盤シングル
マジック・ランタンに関しては、「孤独の夜明け」以前に「シェイム・シェイム」が英米で中ヒットした実績を持ち、日本でもシングルがリリースされていた。70年に「孤独の夜明け」が出された時点で中堅バンドだったわけだが、私を含め当時のリスナーにとっては当然はじめて聞くバンド名だった。ポリドールからのリリースだったが、ヒットチャートの点で言えば当時の日本ポリドールの勢いは凄まじく、ビージーズを筆頭に、ショッキング・ブルーの「ヴィーナス」「悲しき鉄道員」を筆頭に同じオランダのアース&ファイアも続けてのヒットにつなげたところだった。それだけに積極的なリリース姿勢を見せていた時期でもあった。また、当時のポリドール系のシングルは、ジャケットが印刷された袋になったコーティング・ジャケットになっていて、他社のシングルと比べて何か特別な高級感を持ったことも事実。
そして、こちらもラジオからヒットがついた。まずはイントロのリズムの刻みが印象的。そしてやはり哀愁を伴ったヴォーカル、メロディが日本人受けしたのだろう。盛り上がりを見せるサビの部分からは、ホーン・セクションが圧倒的な迫力を見せていた。
ちなみに原題の「ワン・ナイト・スタンド(One Night Stand)」に関しては「一夜限りの情事」といった下世話な意味だが、それを「孤独の夜明け」と洒落た邦題にしたことがまた成功の要因だった。B面の「フリスコ・アニー(Frisco Annie)」もハードサウンドにヴォーカルが上手くのったいい曲だ。彼らの本来の姿がこちらだったようにも思えるが、当時シングルを買ってA,B両面とも気に入ってすごく得をした気持ちになったことも改めて思い出す。ただ、あとでCD化された音源を聞くと、レコードには入っていなかった叫び声が後半で聞こえて、あれっと思った。英国盤LPにはその叫び声が聞こえているので、シングル盤のみミックスが違うのだろうか。
◇マジックランタン メンバー写真
彼らのエピソードで言えば、メンバー写真にオジー・オズボーンに似たメンバーがいて、「変名での参加か!?」と言われていた。既にブラック・サバスとしての活動が安定していたこともあり、今になって考えるとおかしな話なのだが、オジーに関しての他バンドにも参加していたのでは・・・と言う噂は幾つも確認できて面白い。有名なところでは、コーヴェン(Coven)という黒魔術からスタートしたバンドにはその名もOZ Osbourneというベーシストが参加していて、みんな勘違いして騒いだこともあった。
◇マジック・ランタン シングル
◇マジック・ランタン アルバム
彼らのディスコグラフィーを並べてみると、66年から72年までとずいぶんとキャリアを持っていることが分かる。デヴュー曲にあたる“Excuse Me Baby”が英国で44位のヒットを記録したことから、周囲の期待感を担って活動を続けたのだろう。ランカシャー出身の彼らも、前身のThe Sabresから4パートのヴォーカル・ハーモニーを得意としたグループだった。セカンド・シングルの“Rumplestilskin”は、グラハム・グールドマン(Graham Gouldman)の曲だし、その後もピーター&ゴードン(Peter & Gordon)やモンキーズ(Monkees)の曲を取り上げたりしている。
彼らの転機は69年の「シェイム・シェイム」からだが、ここからプロデュースをスティーヴ・ローランド(Steve Rowland)が担当することになり、完全にポップ・グループとしての認知を得ることになる。しかし、英国では受けなかったものの、米では18位まで上がった記録がある。日本でも69年3月にシングルが出されていたが、私はラジオで聞いた覚えがなかった。かかったことはあるのかも知れないが当時の記憶にはのこっていない。今回原稿を書くために久し振りに聞くととても新鮮に聞こえた。
結局、71年ポリドールに移ってからの「孤独の夜明け」が日本で大ヒットした。(オリコン41位)米国では74位に入っているが、英国では記録がない。この曲はアルバート・ハモンドとマイケル・ヘイゼルウッドのコンビによる作品で、この後、ハモンドは72年に「カリフォルニアの青い空」で大ヒットを飛ばすことになるとは思いもしなかった。ハモンドはスティーヴ・ローランドとのつながりからファミリー・ドッグ(Family Dogg)に参加しながら、外部に曲を提供し他にもヒット曲を多数持っている。
日本ポリドールの洋楽班はこの「孤独の夜明け」のヒットに味をしめ、この後彼らのシングル・タイトルをすべて「孤独の○○」でそろえることとなる。順に「孤独の青春」「孤独のサンシャイン」「孤独の街角」「孤独のカントリー・ウーマン」と第5弾まで続く。少し原題には引っかけているものの、かなり無理が見てくだろう。結局はどれもヒットせず、「孤独の夜明け」だけの一発屋の仲間入りを果たしてしまうことになる。
彼らのアルバム(LP)は英で2種、米で1種ある。すべて内容が違うので混乱してしまう。英国盤は結構入手しにくいが、米国盤は結構見かけるし、ジャケット・デザインも米国Atlantic盤のほうがよく出来ている。私も結構探索して英国盤を2枚とも入手できたが、特に期待していた『One Night Stand』のトホホなデザインには落胆させられた。
一発屋扱いを受ける彼らではあるが、じつは本格的で堂に入ったハーモニーと曲作りを見せていて、アルバム曲にもよく出来た曲が多い。CD化は結構以前から進み、ほぼコンプリート的な内容なので見つけて聞いてみたらいいだろう。
マジック・ランタンに関してはFacebookを持っていて懐かしい画像や音源を用意している。米盤ジャケットのデザインと同じアングルで集まった現在のメンバーの写真を掲載したり、昔話を紹介したりとなかなか楽しい。
70年の夏を彩った思い出深いヒット曲の一つ。今回紹介した2曲との違いは、日本だけでなく世界中で大ヒットした記録を持っているということ。ヴァニティ・フェアとして日本ではこの1曲だけがヒットした。「夜明けのヒッチハイク」は日本では70年夏に発売され、オリコンで最高位14位となり9.5万枚を売り上げている。私のコラムの2回目で紹介したハイ・ヌーンの「涙のフィーリング」と並んで、とにかく70年の夏には日本のラジオではかかりまくっていた。
リコーダーのどこかとぼけた味わいのイントロが印象的でいかにもヒット曲らしいポップソングだが、演奏をよく聴くとなかなか凝ったリズムを持っていて興味深い。Page Oneというレーベルも英国然とした雰囲気を持っているし、仕掛け人も英国ポップ・ファンには馴染みの深いロジャー・イースタービー(Roger Eesterby)とデス・チャンプ(Des Champ)のコンビ。彼らもこのコラムの3回目でディープ・フィーリングを取り上げたときに出て来た名前だ。Page Oneはザ・トロッグス(The Troggs)がヒットを連発したことで順調に滑り出したレーベルであった。
彼らの歴史は1961年、ヴォーカルのトレヴァー・ブライス(Trevor Brice)が学生時代に結成したアヴェンジャーズ(The Avengers)にはじまるからずいぶんと活動歴がある。その時のメンバー、ギターのトニー・グールデン(Tony Goulden)とベースのトニー・ジャレット(Tony Jarrett)とはずっとヴァニティ・フェアとしてつながっている。バンド名はデュアン・エディの曲から取り、3人のハーモニーを売りにしていたという。クラブやダンス・ホールでの演奏を主体に活動を続けかなりのキャリアを有していた。65年の暮れにはバンド名をThe Sagesと変え最初のレコーディングを行い、翌年1枚シングルを発表するが、これはなぜか米盤でのみ発売された。トレヴァーのヴォーカルは「フランキー・ヴァリに対する英国からの回答」とか、彼らのサウンドも「初期バーズを彷彿とさせるギターサウンド」などと米国で評判を呼んでいたせいだと思われる。また、バーバラ・リー(Barbara Lee)という女性のマネージャーがずっと影となって支えたことが大きかった。68年の半ばに彼女はベースのトニー・ジャレットとの結婚を機に退き、新たなマネージャーがロジャー・イースタービーになったことからPage Oneとのつきあいがはじまることになるのだ。
ヴァニティ・フェアという新たなバンド名については、契約の際訪れたPage Oneレーベルのオーナーであるラリー・ページ(Larry Page)のオフィスの書棚にあった一冊の本がきっかけだ。それは英国の作家、サッカレーの著書「虚栄の市(Vanity Fair)」だった。「書名をそのままではなしに部分的に変えられないか」というトレヴァーの要望を聞いて「Fair」の部分が「Fare」になった。
とてもポップ・グループにしては重たい名前に感じるが、トレヴァーは「普段はTシャツにジーンズを着ていても、舞台に上がる時はカッコよく衣装を着こなす自分たちの姿がVanityにつながるかもね」と思い起こしている。
また、コーラス・ハーモニーが主体といってもリズム面での補強が必要となり、ドラムスにディック・アレックス(Dick Alex)が加わったのもこの頃である。このアレックスは、じつはすごい実力を持ったドラマーなのではないかと、当時の演奏する様子を見て思ったのだがどうだろう。彼のキャリア的にはGnomes Of Zurichというバンドにいたことくらいしか分からない。同バンドは66年から67年に4枚のシングルを出していて、デヴュー作“Please Mr.Sun”はシェル・タルミー(Shel Talmy)のプロデュースというところまでつかんだものの、音は未だに聞いてはいない。また、やはり途中から加わったキーボードのバリー・ランダーマン(Barry Landerman)はブリンズレー・シュワルツ(Brinsley Schwarz)と共にキッピントン・ロッジ(Kippington Lodge)で活動していた。単なるポップ・グループではなく、当時の英国ロックとの関わりが見えて興味深い。
Page Oneからの最初のシングルは68年6月の「I Live For The Sun」で邦題は「太陽に叫ぼう」として伝えられているが、日本ではシングルとして発売されてはいなかった。この曲は米グループ、サンレイズ(The Sunreys)のヒット曲でオリジナルも素晴らしいが、ヴァニティ・フェアのカバーも負けていない。改めてそれまでのハーモニーのキャリアが生きているものと理解できる。
ただビーチ・ボーイズのファンからはサンレイズが目の敵にされている部分もあり、しっかり評価されていない部分もあって残念だ。(ビーチ・ボーイズのウィルソン兄弟と父親との確執がその理由なのではあるが)
日本ではフィリップスからヴァニティ・フェアの「幸せの朝(Early In The Morning)」が69年にシングルとして出されていたのが最初。これは、クリフ・リチャード(Cliff Richard)がシングルとして発表し日本でヒット(69年オリコンで4位)していたことから、「本命盤」とうたい競作としてあえて出したものだった。意図的だろうがクリフ盤が「しあわせの朝」だったものを漢字で「幸福(しあわせ)の朝」と読ませている。しかし、さすがにクリフ盤にはかなわなかった。(英米ではヴァニティ・フェア盤が大ヒット、特に英では最高8位、米では12位を記録している。一方のクリフ盤は日本だけのヒットとなった。)
それにしても60年代から70年代にかけて英国のシンガーであるクリフ・リチャードの日本での人気は大きいものがあった。NHK-FMの日曜夕方6時の石田豊アナウンサーによる「リクエスト・アワー」ではよくかかっていたし、民放ラジオのヒットチャートでも出すシングルは必ず紹介され、ランク・インしていた頃だった。(当時のファンクラブのマメなリクエスト葉書作戦が功を奏したと言われている。) 私自身もこの「しあわせの朝」をきっかけに彼の歌が好きになり、その後「グッバイ・サム」のシングル盤を買って以降しばらくは彼の出す曲に関心を持つようになった。
以前ヴァニティ・フェアのCD化の際にもライナーに書かせてもらったのだが、その頃TVのトム・ジョーンズ・ショーのゲストでヴァニティ・フェアが出演し、そこで「幸福の朝」を演奏していた。まだ今述べたカバー事情をよく知らなかった私にとって、なぜ彼らがクリフの歌を歌うのか不満だった覚えがある。その時には「夜明けのヒッチハイク」がヒットしたあとなのでそちらを聞けたら十分満足できたのに・・・と悔しさもあった。が、今となっては当時ヴァニティ・フェアの動く姿を見られたことは幸運だったと思える。
彼らも「夜明けのヒッチハイク」のあと、「二人だけの朝」「夢は流れても」「アワ・オウン・ウェイ・オブ・リヴィング」とシングルを出すものの、どれもヒットはしなかった。それでも、「二人だけの朝」だけは注目曲としてラジオで流れていたことは覚えている。今、聞き直してもこれはヒットしても不思議のない素敵な曲だと思うのだが。
ヒッチハイクという言葉は知っていても、やってみたいとは思わなかった私だが、さわやかな「夜明けのヒッチハイク」のヒットはとても印象的だった。日本のシングルのジャケットに中央に写るトレヴァーは先日亡くなったショーケン(萩原健一)に似ていることも話題になった。しかし、その後日本でもシングルは出すもののやはり彼らは一発屋として受け止められてしまうことになる。当時日本で出された4曲入りのコンパクト盤に当時考えられる重要な曲がまとめられていたので、とても便利で重宝したことを思い出す。このコンパクト盤という日本の仕様(17cmシングルサイズに4曲入れて33回転)は、海外でのEPに相当するものだが懐かしく魅力的な世界だった。
◇ヴァニティ・フェア シングル
◇ヴァニティ・フェア LPジャケット
「当時を知る者にとっては懐かしく、新しく聞く者にとっては新鮮」をキャッチフレーズに、「忘れられない一発屋伝説」も3回目となった。日本ではやった洋楽ヒッツのようなコンピレーションはたくさんあるが、今まで取り上げてきたような英国ポップものはなかなか取り上げられていない。取り上げられることがあってもすぐに廃盤になるものも多く、オークションで高値がつくと悲しくなってくる。本当に、そうしているうちに、かつてのヒット曲が影も形も、その記憶さえもなくなってしまうことを考えると寂しい。
そんな一方で、今回取り上げた3つのグループに関しては比較的早くCD化されたということは、ほぼコンプリートな形で残されている。比較的早くということは、機会がなければそのまま埋もれていってしまうことになるのではないか。そんな危惧を抱いてしまう。
今回は当時の雰囲気が少しでもよくよく伝わるようにと思い、私が持っているレコード・ジャケットを中心にスキャンして掲載したので、楽しんでもらえたら嬉しい。
◇再発CD
当時のシングル盤はステレオばかりでなく、モノラルのことも多く、昔ラジオやレコードで聞いた音とCDとの間のギャップに戸惑うことがよくある。間違いなくCD化された音の方がいい音なのだが、『何かが違うんだよな』という思いは当時を知る方々なら経験があるだろう。あれだけ昔夢中になって聞いたシングル盤なのに・・・しかし、今では自分の耳もCDに完全に慣らされてしまった感じがしている。
文中でも触れてきたが、今回の3つのバンドにしてもコンプリート的なベスト盤CDが数種出ているので、彼らが結果的には一発屋と言われようと、かなり考えて作りこまれたポップ・ソングが聴けるので手に入れる価値はあると思う。
ビートルズやストーンズをはじめ定番となっているものは常に再発を繰り返し、きっとずっと生き続けていくだろう。中には最近になって突然に名盤としてその名が知られ輝きだした過去の遺産は、掘り起こしてもらって幸運だったと思う。それはそれでいい。
こうしたポップ・ヒッツも経験した一人一人が大切にして欲しいという願いを持ちながら、私はまた機会を見つけて紹介していきたいと考えている。
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