2020-04-24
1930年代、テキサス州の民俗音楽研究家であるジョン・ローマックスとアラン・ローマックス親子が、国会図書館の委託を受け、全米を旅してフォーク・ソング/ブルースを収集しました。
レッドベリーやマディ・ウォーターズを刑務所や農場で「発見」し紹介したり、ウディ・ガスリーやピート・シーガーの活動を支えたり、ラジオ局でのフォーク音楽の番組制作に携わったりなど、彼らの活動によってフォーク・ブームが押し進められました。
1952年、29歳の青年ハリー・スミスが「アンソロジー・オブ・アメリカン・フォーク・ミュージック」を発表しました。
ハリー・スミスはオレゴン州生まれの民族音楽を熱心に研究していた芸術家/学者。
このアンソロジーは、1927〜32年にアメリカ各地で録音されていた78回転レコードの音源を集めたもので、カントリー・ブルース、バラッド、ケイジャン・ソング、ジャグ・バンドなど、アメリカ音楽の源泉がぎっしりと詰まった内容でした。
このレコードはボブ・ディランをはじめとして多くのミュージシャンに影響を与え、フォーク・ブームに関わったミュージシャンたちは皆熱心に聴いて研究をしていました。
ボブ・ディランにとってのヒーローだった事でも有名な、ウディ・ガスリー。数多くのアーティストに影響を与え、フォーク・ブームの精神的な支えとなりました。
ウディ・ガスリーが生まれたのは1912年オクラホマ州。
もとは裕福な家庭でしたが、1930年代の大恐慌の時代に入ると事業が立ち行かなくなり、度重なる不幸に襲われ一家離散、10代で職を求めながらさすらう人生となりました。
看板書きをしたり路上で当時のヒット曲を歌って日銭を稼いでいましたが、次第に自分で曲を作るようになります。
アメリカのトラディショナル・ソングやヒルビリーの有名曲を借りて、オリジナルの歌詞をつけるというやり方でした。
仕事を求めてアメリカを放浪する人たち(ホーボー)とともに全国をまわり、貧しい人々の暮らしや労働の過酷さを歌いました。
また当時オクラホマ州には「ダスト・ボウル」という砂嵐が度々襲いかかり、農作物や家畜は全滅し、貧困と砂塵による肺炎が人々を苦しめていました。
白人の入植によって土地が瘦せたことが原因とも考えられ、人災とも言える過酷な砂嵐。この砂嵐を主題としてウディはいくつも曲を書き、その楽曲群はアラン・ローマックスによりレコーディングされ、ニューヨークのフォーク・シーンに大きな影響を与えました。
「ダスト・ニューモニア・ブルース」ではこう歌っています。
ウディ・ガスリーに続いて、フォーク・ブームの中心人物となったのが、ピート・シーガー。
1919年、音楽学者の父とヴァイオリン奏者の母という絶好の環境のもと、ニューヨークに生まれたピート・シーガーは、早くから音楽に興味を示し、ウクレレやバンジョーを習得しました。
ハーヴァード大学入学後にはアメリカン・フォークにのめりこみますが、ウディ・ガスリーの生き方に影響されたこともあって、1938年には大学を中退します。
退学後にはアラン・ローマックスの助手としてフォーク・ソングの収集を行い、やがてフォーク・シンガーとして生計を立てる決心をします。
アランの勧めでフォークのラジオ番組に出演するようになり、レッド・ベリー、ウディ・ガスリーらとともに放送に出演していました。
ピート・シーガーはウディ・ガスリーの活動を見て、フォーク・ソングが人々ににメッセージを発信し、社会に対抗できるツールになり得ることを確信します。
そして1941年、ピートの親友で活動家のリー・ヘイズ、脚本家のミラード・ランペルとともに、オールマナク・シンガーズが結成されます。メンバーは流動的で、のちにはウディ・ガスリーも在籍していました。
オールマナク・シンガーズは労働や人種の問題など時事的な事柄を歌にし、いわば「歌う新聞」として機能していました。
戦後の1949年にはウィーヴァーズと改名し、1950年、レッドベリーの代表作であった「グッドナイト・アイリーン」をカバーしたところ200万枚のセールスを記録する大ヒットに。
ところが、彼等は時事的/社会的な内容を歌っていたこともあって、冷戦を背景とした赤狩りの対象になり、活動停止を余儀なくされてしまいます。
しかし50年代後半には、ウィーヴァーズの音楽性や精神性を受け継いだグループが次々と生まれます。彼らはモダン・フォークと呼ばれて流行します。
その筆頭として挙げられるのが、キングストン・トリオ。
彼らはサンフランシスコで結成されたグループで、1958年の「トム・ドゥーリー」は全米ナンバー1の大ヒットを記録します。
その美しいコーラスと、ポップで軽快なサウンドは特に学生たちの支持を得て多くのフォロワーを生み、世界的なブームとなります。
続いて1960年、西海岸ではシアトルのワシントン大学の学生たちが組んだブラザーズ・フォーが「Green Fields」でヒットを飛ばします。
ソフトなハーモニーと爽やかなイメージで人気を博します。
東海岸のモダン・フォーク・グループの代表は、ピータ・ポール・マリーです。
ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジで結成された3人組は、美しいハーモニーと洗練されたサウンドで、世界中で人気を博しました。
また、カナダからは男女デュオ、イアン&シルヴィアが登場しました。彼らはボブ・ディランやピーター・ポール&マリーのマネージャー、アルバート・グロスマンの後押しもあって大人気となります。
モダン・フォークは都市部の大学生を中心とした若者に広がり、「カレッジ・フォーク」と呼ばれ世界中に広まりました。
日本でも、マイク眞木によるモダン・フォーク・カルテット、黒澤久雄によるブロードサイド・フォー、森山良子などが活躍しました。
60年代になると、フォークは公民権運動や反戦運動と結びついて、体制を批判する役割を担っていきます。
「花はどこへ行った」「天使のハンマー」など多くの曲を作ったピート・シーガーが、プロテスト・フォークの先駆者となりました。
また当時のフォーク・ファンでは『シング・アウト』や『ブロードサイド』など、フォーク情報誌が情報をもたらしていました。
ピート・シーガーも編集に携わったその雑誌には、当時の時事的な問題を歌うトピカル・ソングが多く掲載され、ボブ・ディランの「風に吹かれて」も載り多くの反響を呼んでいました。
それでは、プロテスト・フォークと呼ばれる楽曲をいくつか聴いてまいりましょう。
世界で最も有名な反戦歌とも言われる「花はどこへ行った」。
ピート・シーガーがロシアの小説家、ミハイル・ショーロホフの『静かなドン』の一節にヒントを得て書き上げました。
キングストン・トリオやピーター・ポール&マリーがカバーし、多くの人に歌われていきました。
ピートの優しい歌声が心に染み入るとともに、戦争によって人の暮らしや幸せがむしり取られていく様子がシンプルな言葉で響いてきます。
ウディ・ガスリーに憧れて故郷ミネソタを飛び出し、61年にニューヨークに辿り着いたボブ・ディラン。
当時フォーク・ブームの真っ只中だったグリニッジ・ヴィレッジで注目を集め、62年にデビュー、63年に2nd『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』と矢継ぎ早にリリースしました。
アルバム冒頭の「風に吹かれて」は反戦や人種平等を訴える社会派のフォーク・ソングとして受け止められ、ボブ・ディランは一躍「プロテスト・ソングの旗手」として人気を博しました。
のちにフォークの枠を飛び出して、「ボブ・ディラン」というジャンルになっていくディランの歌詞をよく見てみると、単に社会へのメッセージというよりは、人の存在そのものの謎に迫っているように思えます。
ボブ・ディランと並んで「プロテスト・ソングの旗手」と呼ばれていたのがフィル・オクスでした。
テキサス州生まれのフィルは大学でジャーナリズムを勉強しており、やがてフォーク・ミュージックに熱中。時事的な問題を歌にして歌い、ボブ・ディランとライバルのように活躍していました。
しかし時代が進むと政治についての歌が流行らなくなり、ボブ・ディランもロック化していきました。
フィル・オクスは自身の生き方に悩み、アルコールへの依存などの問題もあり76年に35歳という年齢で自死してしまいます。
不器用にプロテスト・フォークにこだわり続けたフィル・オクスですが、そのパーカッシブなギター・プレイ、不安をはらんだような歌声、正面から社会を批判する鋭い歌詞は今聴いても心打たれます。
フォーク・ブームの拠点となっていたのは、「コーヒー・ハウス」と呼ばれる場所でした。喫茶店というよりは、毎晩アマチュア・ミュージシャンが演奏を繰り広げるライヴ・ハウスといった趣で、全米各地に出現しました。
特に活発だったのがニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジです。この地区の「マクドゥーガル通り」と「ブリーカー通り」は、コーヒー・ハウスがひしめき合い、大変な賑わいを見せていました。
シカゴでは、1961年に「シカゴ・フォーク・フェスティバル」が、西海岸ではカリフォルニア大学のキャンパスにて「バークレイ・フォーク・フェスティヴァル」が開催されました。
そして最も影響力のあったのが、1959年にニューヨークのロード・アイランドにて開催された「ニューポート・フォーク・フェスティヴァル」です。
ニューポート・フォーク・フェスティヴァルは、ピーター・ポール&マリーやボブ・ディランのマネージャーだったアルバート・グロスマンが制作に携わり、ピート・シーガーも協力を惜しみませんでした。
ボブ・ディランやジョーン・バエズ、ピーター・ポール&マリーなどフォークの大スターを産んだこのフェスティヴァルは、フォーク・ブームの大きな柱となりました。
モダン・フォークやプロテスト・フォークで賑わっていたフォーク・ブームのなかで、次第にシンガー・ソングライターの萌芽とも言える独自のサウンドを持ったアーティストが表れてきました。
その一人が、フレッド・ニール。
オハイオ生まれのフレッド・ニールは、50年代後半にニューヨークに出てきて、バディー・ホリーやロイ・オービソンのソングライターとして活動し、やがてグリニッジ・ヴィレッジのコーヒー・ハウスで歌い始めるようになります。
同じ時代の多くのフォーク・シンガーが反戦や反人種差別を歌にしたのに対し、フレッド・ニールは個人的な心象風景や人生について歌い、いち早く「シンガー・ソングライター」的な曲を書きました。
また、その12弦ギターの波打つような独特な音色や、深みのある低音のボーカルは幻想的な響きを醸し出しており、ブルースを根幹とした妖艶なサウンドとなって、ジョン・セバスチャンやカレン・ダルトンなど多くのミュージシャンに影響を及ぼしました。
それでは、フレッド・ニールから2曲ピックアップいたしましょう。
65年作より、「Other Side To This Life」。
60年代前半にビーチ・ボーイズを手掛けたキャピタル・レコードのプロデューサー、ニック・ヴェネットがプロデュースしており、ブズーキーやドブロ・ギター、そして12弦ギターがエコーの中鳴り響く浮遊感あるサウンドになっています。
「Other Side To This Life」の歌詞を見ていきましょう。
少年期は南部を転々としていたというフレッド・ニール。
どこに向かっているのか、何をしているのか、分からずさまよい歩く様子が伝わってきます。
続いて、66年作より「Everybody's Talkin'」。
邦題「うわさの男」で、映画『真夜中のカーボーイ』にてニルソンが歌いヒットした楽曲です。
ゆらめく低音のボーカル、そして幽玄な12弦ギターの音が、妖しげな魅力を持って迫ってきます。
伝承歌をそのまま歌うのでもなく、社会に抗うスタンスで歌うのでもなく、自分の思ったこと/感じたことを、独自の言葉で表現しています。
歌っているのは、放浪し漂泊する人生。その自由と虚しさが、風景や夢想をぶっきらぼうに歌うことによって浮かび上がっています。
フレッド・ニールの楽曲は、60年代という時代を感じさせません。歌唱やギターの独創性もさることながら、どこから来てどこへ向かうのか分からない、人という存在の本質を歌っているからではないでしょうか。
フレッド・ニールと同じようにグリニッジ・ヴィレッジで異彩を放っていたのがティム・ハーディン。
オレゴン州で生まれたティム・ハーディンは、父親がジャズ、母親がクラシックのミュージシャンという音楽的に恵まれた環境で育ちました。
18歳で高校を中退し海兵隊に加わり、その後61年にニューヨークへと出てグリニッジ・ヴィレッジで歌い始め、フォーク・ロックの流行に先立ってエレクトリック・ギターでブルースを弾き語る独特のサウンドで演奏していました。
ラヴィン・スプーンフルのプロデューサー、エリック・ジェイコブセンに見出されてコロンビア・レコードと契約、66年に1stアルバムをリリースしました。
フォークやブルースを軸としながら、Gary BurtonやPhil Krausなどジャス畑のミュージシャンを起用した、洗練されたアレンジで聴かせます。
また、ティム・ハーディンは、妻への想いや心の痛みなど私小説的な楽曲を多く書いており、率直な表現と心の内をさらけ出す言葉が、同時代のシンガーの中で先立って「シンガー・ソングライター」的でした。
67年にリリースされた『TIM HARDIN 2』から、「If I Were A Carpenter」を聴いてまいりましょう。
驚くほど、率直で飾り気のない言葉です。不器用ながらも人を想う心が伝わってきます。
ティム・ハーディンは、65年にロサンゼルスに滞在していた時に後の妻となるスーザンに出会い、幸せな家庭を築き子供も生まれます。
69年には『スーザン・ムーアとダミオンの為の組曲』という妻子への思いを込めたアルバムをリリースするくらい、ティムにとって家族は創作や生きる上での力の源となっていました。
しかし、その録音から暫く経ったあと、ティムのドラッグ癖のために関係が悪化し、スーザンは離れて行ってしまいます。
スーザンとの別れの後、71年にリリースされた『BIRD ON A WIRE』から、「Love Hymn」を聴いてまいりましょう。
この曲では、スーザンとの出会いから別れを私小説風に綴っており、素朴に綴られた心情に胸が痛みます。
スーザンとの幸せな暮らしがありながらも、戦地で覚えたというドラッグから抜け出す事が出来なかったティム・ハーディン。
その後のティムは、スーザンへの思いを断ち切れず悲しみに打ちひしがれ、またドラッグとアルコールへの依存が激しくなり、80年に39歳という若さで亡くなっています。
何もこんなに正直に曲にしなくても良いのに…と思ってしまいますが、ままならない人生や心の痛みを、静かな言葉で淡々と歌うティム・ハーディンに、胸打たれます。
「プロテスト・シンガーの旗手」としてグリニッジ・ヴィレッジで大人気だったボブ・ディラン。
洗練された比喩表現で聴き手ごとに想像を膨らませるその歌詞は、他のミュージシャンの中で際立って優れており、言葉一つ一つの鋭さが群を抜いていました。
64年の『The Times They Are A-Changin'(時代は変る)』より表題曲を聴いてまいりましょう。
「The Times They Are A-Changin'(時代は変る」は、ケネディの大統領就任演説にヒントを得て作られたものとされ、古い価値観が時代遅れとなっていることを説くメッセージソングとなっています。
アパラチア山脈に伝わるトラッドの「Come gather round…」と民衆に呼びかけるフレーズ。これをボブ・ディランは63年という時代に改めて当てはめて、再解釈し、プロテスト・ソングとして世に放ったのです。
のちのケネディ大統領の暗殺を予感していたと言われるくらい時代を敏感に察知した楽曲ですが、当時だけでなく、古今東西のあらゆるところで感じ取ることができるテーマです。
価値観や秩序はどんどん移り変わっていき、昨日良いとされていたものが明日は変わってしまう。固執せず、泳いでいかねばならない。イメージを膨らませる言葉をうまく使って颯爽と歌うボブ・ディランに、気持ちが新たになります。
しかし、ボブ・ディランは次第に社会派のシンガーとしてもてはやされることに、嫌気がさしてきます。
ボブ・ディランは表現したいことの手段としてフォークを選んでいましたが、そろそろフォークの限界を感じていたようです。
1964年、ビートルズがアメリカに上陸した年にリリースされたのが『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン』です。
プロテスト・ソングが大半を占めていた前2作に比べて、個人的な思いを綴った楽曲が多くなっています。
アルバム冒頭曲「All I Really Want To Do」を聴いてまいりましょう。
色々な捉え方が出来るボブ・ディランの詞ですが、これはプロテスト・シンガーとしてのボブ・ディランを求めていたファンに向けて書いたとも解釈ができます。
音楽に過剰に「意味」を付け、フォークという形式にこだわり続けるファンたちに「プロテスト・フォークの旗手」と祭り上げられて、うんざりしていたのではないでしょうか。
「時代は変る」と歌ったボブ・ディラン自身も、変わり始めていたのです。
もう一曲聴いてまいりましょう。「My Back Pages」。
「黒と白」「善と悪」ときっちり決めつけて「プロテスト・フォーク」を歌っていた自らと、決別しているように聴こえます。
何かに凝り固まることが、ディランにとって老いを招いていたのでしょう。
このアルバムの翌年、ボブ・ディランはニューポート・フォーク・フェスティバルにて「電化」します。
ギター弾き語りが基本だったフォークから、バンドを従えたロック・スタイルへとサウンドを変更し、ファンに大きな衝撃を与えるのです。
その後もボブ・ディランはザ・バンドと共にルーツ・ミュージックに接近したり、カントリー・ミュージックやゴスペルを取り入れたサウンドへと様々に変化していきます。
1964年、ボブ・ディランが「プロテスト・シンガー」から見事脱皮したのが、この「アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン」だったのです。
当時のアメリカ社会の動きも「シンガー・ソングライター」の登場に関わっていました。
60年代のアメリカはは反戦運動や公民権運動など、人々が一致団結して権力に立ち向かう動きや、「共同体生活」への回帰を謳うヒッピーなどのカウンター・カルチャーが広まり、激しく揺れ動きます。
しかし、戦争は終わることなく泥沼化し、差別もなくならず、カウンター・カルチャーは次第に商業に飲み込まれていきます。
「ロックで皆と一つになれる、社会に抗える」といった理想が、崩れ落ちていくのです。
そして60年代が終わると、時代の終焉を告げるかのように多くのカリスマ・ミュージシャンが亡くなり、ビートルズも解散してしまいます。
70年代のシンガー・ソングライター時代の幕を開けたのは、ジェイムス・テイラーでした。
ジェイムスが歌った「Fire And Rain」が、60年代をくぐり抜けて疲弊した人々の心を癒したのです。
ジェイムスがこの曲をリリースするまでを見ていきましょう。
ボストンで生まれたジェイムス・テイラーは、60年代半ばにニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにて、少年時代からの友人ダニー・コーチマーたちとフライング・マシーンというバンドを組んでいました。
しかし、ジェイムスのドラッグ癖などもありバンドでデビューするには至らず、心機一転イギリスで音楽をやろうと海を渡ります。
ダニー・コーチマーから紹介されたピーター・アッシャーを頼ってアップルと契約、68年12月に1st『ジェイムス・テイラー』をリリースしましたが、当時ビートルズが解散しそうな時期でレーベルが混乱しており、プロモーションがあまり出来なかったこともあって、セールスは振るいませんでした。
デビュー作の不発、そして常習化したドラッグの問題や子供時代の友人の自殺などがあり、ジェイムスは絶望を味わい、69年にアメリカへと戻ります。
再出発をしようとピーター・アッシャーとともにロサンゼルスに移り住んだジェイムスは、69年10月にワーナー・レコードと契約を結びます。
12月から2作目のレコーディングを進め、70年2月、『スウィート・ベイビー・ジェイムス』をリリース。8月にシングルカットされた「Fire And Rain」がじわじわと大ヒットし10月には全米3位となり、『スウィート・ベイビー・ジェイムス』は実質的なデビュー作となりました。
「Fire And Rain」を聴いてまいりましょう。
「Fire And Rain」は、ジェイムスが少年時代に精神を療養していた際に知り合った友人、スザンヌの死を歌ったとされる楽曲です。
英国でデビューしていたジェイムスを友人たちが気遣い、ジェイムスにスザンヌの死の知らせが届いたのは、彼女が亡くなって半年後でした。
アップル・レコードでの挫折や、自身の精神疾患や薬物中毒など、まさに「火や雨」の中を生きてきたジェイムス。
そんな混乱のなか、さらに大切な友人を失ってしまい、どうしたら良いのか分からない…という絶望や戸惑いの心情がそのまま歌になったような楽曲です。
そんな悲しい歌詞ですが、サウンドはこれ以上なく穏やかです。
繊細な心の動きがそのまま弦を弾いているような、細やかな指使いのアコースティック・ギター。キャロル・キングが奏でる必要最低限のピアノ、ダブル・ベースの落ち着いた響き、安定したリズムを刻むドラム。
すべてがジェイムスのボーカルにそっと寄り添い、この悲しい歌を心地よい響きへと作り上げています。
ジェイムス自身の心を癒すとともに、60年代をくぐり抜けて疲弊した人々の気分に、実にぴったり合った楽曲だったのでしょう。
ジェイムス・テイラーと互いに交流しながら、シンガー・ソングライターへと羽ばたいていったのがキャロル・キングです。
キャロル・キングは、作詞家である夫、ジェリー・ゴフィンとともに10代の頃からプロの作曲家として活躍していました。
「ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロー」「ロコ・モーション」など次々とヒットを飛ばし、ラジオでゴフィン&キング作の曲が流れない日はないくらい、人気を博しました。
ところが、64年に米国に上陸したビートルズが一世を風靡すると、その人気に翳りが出はじめます。
62年にデビューし時代の寵児となっていたボブ・ディランの影響もあって、自分で曲を作って歌うシンガーが多数出てきたのです。
プロのソングライターが用意した歌をアイドルが歌う時代から、アーティスト自ら楽曲を作り演奏する時代へと変わっていきました。
キャロルとジェリーの2人は別れることとなり、68年3月、キャロルは生まれ育った東海岸を離れてカリフォルニアへと移り住みます。
職業作曲家からシンガー・ソングライターへの転身を試みようとするのです。
68年、キャロル・キングはバンド「シティ」を結成し、唯一のアルバム『夢語り』を発表しました。
この作品は、キャロルがステージ恐怖症でプロモーションが十分に出来なかったため売れ行きは良くありませんでしたが、この時のメンバー、ダニー・コーチマーとチャールズ・ラーキーとはその後も共に演奏することとなり、チャールズとは公私ともにパートナーとなりました。
また翌年の69年、ロサンゼルスのピーター・アッシャー宅でジェイムス・テイラーとキャロル・キングは会って親しくなっており、その後も長く友人関係を続けることとなります。
ジェイムスとキャロル周りの温かい人間関係が築かれていき、それは作品にも影響をし始めます。
70年秋には、ジェイムス・テイラーのコンサート・ツアーにバックバンドとして参加していたキャロルが、初めて人前で歌うこととなります。
ジェイムスが公演の中で、聴衆に「『ロコモーション』を書いた人だよ」と紹介し、キャロルを表舞台に立たせたのです。
ステージ恐怖症のキャロルは大変緊張したようですが、歌い終わったあと客席からは温かな拍手が送られ、シンガー・ソングライターとして人前に立つという大きな階段を上る事が出来たのです。
その時に歌ったのが、70年の『ライター』に収められた「Up On The Roof」です。
もとはドリフターズが歌った楽曲のセルフ・カバーであるこの楽曲。『ウエスト・サイド物語』からインスピレーションを受けたジェリー・ゴフィンが歌詞を書き、キャロルが曲をつけたものです。
ジェイムスのコンサートや、70年という時に歌われたことを考えると、喧騒から離れて自分や身の回りを見つめた時、手に届く大切な友人との関わりの温かさが身に染みてくる、そんな楽曲に聴こえてきます。
そしてキャロル・キングは、翌年1971年2月に、『つづれおり』をリリース。
アルバムから「You've Got A Friend(君の友だち)」を聴いてまいりましょう。
10代から音楽業界で揉まれ、結婚し子を産み離婚し、仕事を無くし、生まれた土地を離れてロサンゼルスにたどり着いたキャロル。
激動の時を経て、ふと周りを見渡したときにあったのは、心の通じる友人の存在だったのではないでしょうか。
またこの曲は、「友だちを見つけられず孤独な時もあった」と歌ったジェイムス・テイラー「Fire And Rain」へのアンサー・ソングとも言われています。
ジェイムスとキャロルの温かな交流が感じられる楽曲です。
71年5月、ジェイムス・テイラー『マッド・スライド・スリム』から「You've Got A Friend(君の友だち)」がシングルカットされると、全米のヒットチャートで1位になり、シンガー・ソングライター・ブームが到来します。
ジェイムス・テイラーやキャロル・キングと同じ時期に、シンガー・ソングライターの金字塔とも言える作品『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』をリリースしていたのが、ニール・ヤングです。
カナダ出身のニール・ヤングは、ロサンゼルスに出てきてからバッファロー・スプリングフィールド結成を経て、69年からCSN&Yの一員として活動します。
4人のスターによるスーパー・グループとなったCSN&Yは、70年に『デジャ・ヴ』という傑作をリリースし、世界的な人気を獲得。
メンバーそれぞれが独立しつつ調和し、豊かなハーモニーを奏でるというグループ形態は、「人々が「個」として存在しながら争うことなく調和する」というウッドストック世代の理想にかなっており、まさに時代の精神を体現したグループでした。
しかし、それぞれ才能あるメンバーだった4人はまとまりを欠き、やがて空中分解となってしまいます。
その後ニール・ヤングは、『デジャ・ヴ』から約半年後に『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』をリリースします。
タイトル曲を聴いてまいりましょう。
60年代という狂騒の時代が過ぎ、理想が崩れて燃え付きてしまった後の、虚無感や孤独感。
そして、自分と折り合いをつけること、人と分かり合うことの難しさなども歌われており、共に生きることが叶わない人間の姿が浮き彫りになっています。
70年から遠く離れた今でもリスナーの心に響いてきます。
ニール・ヤングと同じ西海岸で、より内省的に自己を見つめた作品をリリースしたのが、ジャクソン・ブラウンです。
カリフォルニア育ちのジャクソン・ブラウンは、ソングライターとしてまず世に知られ、やや遅咲きのデビューをしました。
72年にアサイラム・レコードからリリースされた1stから、「Doctor My Eyes」を聴いてまいりましょう。
人生が過ぎ去っていき、物事が手遅れとなってしまった、その喪失感や焦燥感が感じられます。
ジャクソン・ブラウンの楽曲には、いつも少年のように純粋で真っ直ぐな苦悩が綴られています。
静かな哀しみをたたえたようなメロディと、耳に残って消えない独特な粘りある歌い回しによって、しみじみと心に響いてきます。
カナダで生まれたジョニ・ミッチェルは「早すぎたシンガー・ソングライター」とも言える存在で、変則チューニングによるミステリアスな音展開と、大胆さと繊細さを持ち合わせた歌詞で60年代後半から名盤をリリースしていました。
トロントでフォーク・シンガーとしてスタートし、67年にニューヨークに来ていたジョニ・ミッチェルは、ジュディ・コリンズやトム・ラッシュが彼女の楽曲を取り上げたことで名が広まり、やがてバーズを脱退したデヴィッド・クロスビーに見いだされてロサンゼルスでデビューします。
デヴィッド・クロスビーをとりこにさせた独特のギターとコード進行、そして瞬間瞬間に移り変わるカナダの美しい大自然、学生時代より才能を発揮していた絵画の影響が伺える、感情や情景を色鮮やかに綴った歌詞が素晴らしく、当時のフォーク・シンガーの中でひときわ異色の存在でした。
そんなジョニ・ミッチェルが、60年代という狂騒の時代を終え、数々の恋愛やヨーロッパへの旅行からインスピレーションを得て制作したのが71年の『ブルー』です。
アルバムの冒頭曲「All I Want」聴いてまいりましょう。
色々なことがあって、今は一人で道を歩いている。孤独だけれど生きるエネルギーに満ちていて、一人の人間として立っている。そんな、自由な個人のあり方が感じられます。
ジョニ・ミッチェル『ブルー』はキャロル・キング『つづれおり』ジェイムス・テイラー『マッド・スライド・スリム』と同時期にレコーディングがされており、それぞれが演奏で参加しています。
『ブルー』においてはジェイムス・テイラーがギターを弾いており、ジョニの歌に寄り添いつつ、洗練されたリズム感をもたらしています。
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